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子育ての日々の断片を書き綴る

恩返し

政治記事読みくらべ
松岡自殺 安倍家二代の恩讐 (2) 」「松岡自殺 安倍家二代の恩讐 (3)

無理に背伸びしてかき集めた新人の一人で、選挙前は泡沫同然の扱いだったのが松岡だった。殺人的なスケジュールで全国を駆け巡った晋太郎は最後の最後、松岡の応援に回りきれなかった。それでも執念が乗り移ったのか、大量当選した「安倍チルドレン」の一人として松岡も勝ち上がった。晋太郎の秘書だった晋三はこの選挙の記憶を今も胸に刻む。
 晋太郎は九一年五月に死去した。文字通り、命とひき換えに当選させたのは松岡のほか衛藤晟一古屋圭司長勢甚遠石原伸晃河村建夫ら多くは今の六回生である。同派の傍流扱いながら資金力と面倒見の良さを誇った亀井静香平沼赳夫の下に集まり、タカ派色の強い一派を形成した。衛藤が厚生、古屋が郵政、松岡が農林の各族議員として競い合って力を付けていった。晋太郎を継ぎ、次の九三年の衆院選で初当選した晋三は、一期上の彼らとの交友から議員生活を始動したのである。
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二○○三年の衆院選小選挙区で落選して先行きに危機感を強めた松岡は、亀井から離れて小泉に急接近した。郵政民営化の推進論者に宗旨変えし、衆院特別委員会の理事まで引き受けた。冷徹な小泉は反小泉勢力の先頭に立つ亀井潰しの絶好のカードとして松岡を矢面に立たせたのだ。それでも松岡は不平も言わず、小泉が提唱した農産物の輸出振興の旗も振り、小泉の腹心の飯島勲を「DNAが全部入れ替わったんじゃないか」と驚かせる鮮やかな変わり身を見せていた。
その論功行賞から、二〇〇五年十月の小泉内閣最後の改造では入閣が有力視されていた。実際、小泉官邸による“身体検査”には何とか合格したが、その後、選挙違反が発覚し、チャンスを逃した。積み残された松岡を安倍が入閣させたのも、運命のいたずらか。
参院議員会長・青木幹雄も松岡をかばい続けた一人だ。青木の側近中の側近、同じ島根県選出の参院議員・景山俊太郎の娘と松岡の息子が結婚しているため、青木が松岡更迭の火の手を上げる気配はなかった。安倍はこうした党内力学もしっかり見極め、松岡を守ってきた。