from上海to東京

子育ての日々の断片を書き綴る

リベラリズム

「神保・宮台マル激トーク・オン・デマンド 漂流するメディア政治―情報利権と新世紀の世界秩序」を読み終えた。宮台さんが「リベラリズム」について色々述べていた。日本ではリベラリズム自由主義というように捉えられている。自由主義とは、個人の権利を主張し、どんな場面でも自由がいいという立場。これに対して、リベラリストとしての彼は、

「自由を支える公正さにコミットせよ」と命じる価値的な立場です。公正さとは「入れ替え可能性」のことで、「君が僕でもOKか。ダメなら僕たちの関係は不公正だ」あるいは「君ほどの階層に生まれ変わってもOKか。ダメなら社会は不公正」という具合に公正さを判断する。

と。自分がやっていることを他人がやっても迷惑だと思わないことならやってもいいが、他人がやったら困ることはやらないということが倫理かなと思っていたから、彼によると、私もリベラリストに近い立場ということになる。
また、リベラリズムは、

リバタリアニズム(自由至上主義)とは違い、自由の追求一辺倒ではないし、まして小さな国家などは提唱しない。むしろ、国家権力が、公正な機会配分を支援することを、強く期待します。さもないと、めぐりめぐって、自由を支える公正原理そのものがスポイルされてしまうからです。

と。この前やってみた日本版「ポリティカルコンパス」で「リベラル左派」と分類されたが、「市場原理の負の側面(いわゆる「市場の失敗」)を重視し、政府による再配分や規制を望んで、大きな政府を志向」する立場は、宮台さんが言うリベラリストそのものということになる。宮台さんの定義に従えば、日本語では、リベラリズムのことを自由主義と言わず、社会民主主義と言った方がよいようだ。
しかし、リベラリズムのような何とか主義という言葉は、みんな好き勝手なイメージを持っているので、安易には使えない言葉だ。