from上海to東京

子育ての日々の断片を書き綴る

靖国問題

「昭和の戦争を読み解く」(保阪正康著)から。

松平は、八月十五日(あるいは九月二日)に軍事では決着がついたが、政治(外交)ではまだ戦争状態と理解するのだ。そしてこれが決着がついたのが昭和二十七年四月二十八日までで、講和条約が発効して日本が独立を回復した日に政治(外交)上の解決がついた、つまり戦争が終わったというのである。
したがってこの戦争の続いている期間、もっともわかりやすくいうなら日本がアメリカを中心とする連合国に占領支配を受けている間は、まだ戦争が継続していることになる。だからこの期間に行われた東京裁判は“政治的戦闘行為”になるというのである。松平はこのことを「東京裁判は軍事裁判であり、そこで処刑された方は同じなんだと、そういう考えです」と断言している。
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この歴史観は歪みの伴っていることは論をまたない。なぜなら占領下の立法それ自体をすべての戦闘行為の一形態とみるなら日本の政治家・官僚は“利敵行為”を働いていたことになる。天皇さえも戦争であることを理解しないで“敵”の軍門に下って全面協力をしたことになってしまうのだ。

マル激トーク・オン・デマンド第280回「靖国を『問題』にしているのは誰なのか」ゲスト:三土修平氏(東京理科大教授)。

三土氏によると、1945年末から46年初頭にかけて行われた神道指令と宗教法人令改正の際、GHQは靖国神社に宗教性を捨てて無宗教の公的追悼機関として存続する道と、宗教法人として宗教性を維持する代わりに、あくまで一宗教法人としての地位を甘受し、公共性は放棄する道のいずれかを選ぶように迫った。これは靖国神社に限ったことではなく、他のあらゆる宗教組織が同様の選択を求められたものだが、その実は単にポツダム宣言にも含まれていた政教分離原則の実施を求めたに過ぎないものだったと三土氏は言う。謀略史観に登場しがちな「日本を弱体化させるためのGHQの策略」となどという高等な戦術ではなく、「GHQはむしろ靖国神社戦没者を追悼する無宗教の公的機関になることを望んでいたが、同時に宗教というものの性格を尊重する立場から靖国自身の意思を優先させた結果だった」(三土氏)というのだ。
靖国をどうすべきかについては日本側の意見も割れたが、最終的には一宗教法人として存続させ、政府とのつながりや公的な立場は放棄する道を選んだ。GHQとしては、「あとは政教分離の原則さえ遵守させておけば戦前の国家神道へ回帰する心配は排除できたものと安直に考えていた」(三土氏)という。しかし、その後も靖国戦没者の合祀などが続き、靖国がとても「民間の一宗教法人」とは呼べないような役割を演じていることをGHQ側が知った時は、既に時代状況が変化しており、「今更靖国を潰せだのと言えるような状況ではなくなっていた」(三土氏)。

大前研一:A級戦犯問題を「論理思考」で考察する』。

1972年、時の首相・田中角栄氏が訪中し、日本と中国は国交を再開した。そのときに自民党と中国の間でいったいどういう約束が交わされたのだろう。そのことを日本国民のうちどれだけの人が知っているのか。実は「戦争の加害者はA級戦犯だ。中国の民衆も日本の国民も同じ犠牲者なのである」として、A級戦犯だけを犯人に仕立て上げ、残りの日本人には責任がないことにして日中平和条約が締結され、賠償権も放棄された、といわれている(実際問題として日本は国民政府と既にこの問題は解決済みであったために、あとから政権を確立した大陸政府とはこのような解決策しかなかったと思われる)。この日中相互理解がその後田中派の利権となった中国へのODAの根拠ともなっている。靖国合祀後に登場したコチコチの参拝論者であった中曽根首相でさえも、胡耀邦趙紫陽ら改革派を支援するために首相としての参拝をやめている。
つまり中国の理解は、戦争責任はA級戦犯、日中両国民は犠牲者。したがってこれが、日中が将来仲良くしていくための大前提、というものだ。この政権トップの「相互理解(あるいは密約?)」は日本、および中国の一般国民にはよく理解されていない。そういう理解でODAを開始しておきながら、中国人が評価してくれないのも問題だし、日本人も「靖国に誰が行こうがこちらの勝手、内政干渉もはなはだしい」と言って譲らないのも問題。戦後の補償問題を特定政治家たちの利権に置き換えるような小ざかしいことをした張本人たちがここで登場しなくては永久にこの問題は解決しない。