from上海to東京

子育ての日々の断片を書き綴る

日本科学未来館の自然エネルギートークイベントに行った

samso2011-07-16

4時過ぎに目が醒め、5時過ぎに起きた。また蚊に刺されていた。
朝ごはんを食べた後、みんな起きてきた。
息子が朝ごはんを食べた後、K君から電話がかかってきて、息子に変わった。8時に集合でカブトムシを取りに行くと言って、8時前に出て行った。
しばらくして、K君と一緒に帰ってきて、別のK君がまだ来てないので先に行ってると電話して、また出て行った。
しばらく前からまた左耳が詰まって耳鳴りがすごく聞こえにくくなっていたので、耳鼻科に行った。まだ診察前の20分前であったが、待合室はほぼ埋まっていた。
1時間ほど待って、診察室に呼ばれた。詰まった耳垢を吸いだしてもらう。全部取れないようなので、10分間耳水を入れてふやかすと言われ、ベッドに横になった。10分経って、もう一度吸いだしてもらった。お医者さんは「取れました」と言って、最後に出てきた耳垢を見せてくれた。聞こえやすくなった。痒みがあると言うと「炎症があるので軟膏を出しておきます」と。
薬局に寄って、「デキサンVG軟膏」をもらい、図書館へ。
産経新聞を読んでいると、

そんな毛おじさんをまねようとしている人がいます。菅直人という変わり者です。政商をもうけさせるだけかもしれぬ太陽光発電や未使用の埋蔵電力をあわせれば、原発をやめても大丈夫と、お役所に「もっと数字を積み増せ」と大号令をかけています。
菅さんは、記者会見でも「脱原発」を高らかに宣言しましたが、きのうになって政府方針でなく、個人の考えだと言い出しました。大躍進運動は2千万人以上の犠牲者を出したそうですが、菅さんの個人的運動が続けば、犠牲者がどれだけ出るかわかりません。誰でもいいから早く止めてください。この国に独裁者もどきは要りません。

とあった。産経は、独裁者的な意見を書いていても気づかないようだ。
11時半過ぎに図書館を出て、駅へ。駅ナカSUBWAYでお昼。
中央線で東京駅まで行き、山手線に乗り換え、新橋駅へ。ユリカモメで船の科学館駅まで行って、人気のない道で汗をかきながら、日本科学未来館へ。


7階まで上がってちょっとのどを潤してから、受付を済ませてイノベーションホールへ。
2時から「未来設計会議 [3] after 3.11 エネルギー・科学・情報の民主的な選択に向かって 第1回「自然エネルギー、高くても買いますか?」のトークイベントが始まった。
司会は日本科学未来館科学コミュニケーター池辺靖さん、講師は環境エネルギー政策研究所所長の飯田哲也さんと千葉大学大学院人文社会科学研究科教授の小林正弥さん。
まず、池辺靖さんが「あなたは自然エネルギーのために、一日110円を余分に払いますか?」という事前アンケートの回答のいくつかを紹介。

原発コストの「6円」にの資本費に建築費と事故に対する補償金(または保険金)が含まれていない。
原発コストの「6円」に核燃料廃棄物の処理コストが含まれていない。
原発コストの「6円」に環境負荷原発の通常運用によって汚染された環境をもとに戻す)コストが含まれていない。
よって、議論の焦点のコスト差「一日110円」が、”今後”の日本のエネルギー政策の議論するに当たって正当な金額差になっていない。やりなおし。

など。
その後、飯田さんの話。まず、1kWhあたりの原発の発電コストについて。有価証券報告書から計算した大島さんは10円程度と言っているし、電力会社が自らが報告している数字は平均15円ぐらい。廃棄物処理に5円、それに損害保険を加えると、20円をはるかに超え、30円ぐらいになる可能性がある。太陽光発電は現状30円ぐらい、風力発電は15円ぐらい。これらは急速に安くなってきている。原子力は作れば作るほど高くなる現象が起きている。安全基準が厳しくなり、作業者の質がどんどん低くなっているから。フィンランドで作っている原発は3500億円だったものが1兆5000億円にオーバーランして、さらに建設も4年ぐらい遅延しているのでコストがオーバーシュートするんじゃないかと思う。化石燃料コストは過去十年で平均したら5倍になって、化石燃料の輸入コストが5兆円から23兆円に。化石燃料コストの今後の上昇を踏まえると、長期的には自然エネルギーを増やすことで全体のエネルギーコストが低下する可能性がある。事故を起こした福島第一原発がちょうど40年だったが、世界のこれまでの原発の平均寿命はわずか22年。福島原発事故を別にしても日本は原発の減少期。震災を受けた原発はストレステストを受けたようなものなので、もう捨てるしかない。
風力発電の場合、我々には認知バイアスがあって、要は思い込みがあって、風力発電はでかいと、日本は小さいと、日本は人口密度が高い、だからもう風力発電をできるところはもうないんだとそうそうたる○○大学の教授が堂々と言っているが、真っ赤なウソだ。日本では、太陽光発電は2億万キロワット、風力発電は18.5億万キロワットの設備容量がある。これを尽くしていけば、自然エネルギー100%は可能。
ヨーロッパでは、去年から2050年までに続々と自然エネルギーが100%可能というシナリオが出来始めている。現実が技術者や研究者の予想を上回って、たとえば2009年に太陽光発電風力発電が思いのほか、爆発的に増え始めた。それを後追いするかのようにシナリオが来た。風力発電で全世界ですでに1億9300万キロワットを発電している。原子力発電は3億7000万キロワットであるので、もう半分まで来ている。あと3〜5年で逆転をするだろうと。新自然エネルギーご三家の風力、太陽光、バイオマスの合計で3億8000万キロワットになり、もう原子力発電を追い越した。そんな時代に入って来た。
何でこんなことが起きたかというと、政策の力というか、智の力だ。政治家がハッキリとした目標とビジョンを立てて、その政策を担当する政府が賢く、現実に増える政策を導入したところ、マーケットが立ち上がって、昇龍のように次々と巣立っていく。昨日から審議が始まった全量買い取り制度が基本形。これを導入した国が88カ国。日本ではそれが一切起きないので、マーケットが死滅というか、完全に沈滞化している。政治と政府の両方が極めて無責任だったということ。日本も太陽光発電については赤ん坊のようなマーケットの頃は一番だったが、あっという間に抜かれて、ドイツは去年、一年間で原発7基分に相当する740万キロワットの太陽光発電所を作った。日本でも余剰電力だけを買う中途半な制度でも一時期縮小し始めたマーケットが倍々で増えたので、しっかりとした政策を作れば、一気に増えるということが予測できる。
経済的にも非常に大きなインパクトがあって、過去10年間で20倍に増えて去年は22兆円、これから10年でさらに10倍、200兆円増えるだろうと言われているが、このマーケットの中で日本が占めるのはわずか1.5%、しかも世界の自然エネルギーで活躍している企業の中で日本企業はほとんど見当たらない。産業から見てもマーケットから見ても日本の存在感はほとんどないという絶望的な状況にある。自然エネルギーをドイツと同じようなペースで増やせば、30%に増やせる。10年後には、原子力はゼロか、多くても10%。省エネ、無理をしない節電で20%ぐらい頑張って、あとは化石燃料の効率的利用でこの10年間走らすことができれば、おそらく2050年には自然エネルギーと省エネルギーでほぼ半々ぐらいでまかなえると思う。
4時15分過ぎに終わり、帰宅。息子はサッカーの練習を終え、リュックサックが玄関に放り投げてあったが、祭りに行ったようだった。妻はまだサッカーのお茶当番から帰ってきていなかった。
次は小林正弥さん。エネルギー問題と哲学というテーマで、哲学的な観点からこの議論を考えてみようと思う。哲学と科学はどういう関係にあるか。通常の人びとの科学観に対していくつかの新しい考え方が提起されている。ごく簡単に言うと、科学技術は中立的だというイメージが強いが、実際は価値の問題と密接に関わる。それからどういう科学技術が進展していくかというと、その時々の人びとの考え方、あるいは政治によってまた変わる。これを経路依存性という。つまり今原発という選択をある程度して、現状になっているので、このうえで考えている訳で、別の選択をしていると別の未来があった。飯田先生の話にあったように、たとえばヨーロッパではもっと早く自然エネルギーを増加している洗濯をしているから今こうなっていると。
この一番大きな例は、原爆。これはナチズムとの対抗関係ということであったけれども、日本に原爆を落としたあとで、科学者は反省というものをした。このことから、科学と価値の問題、あるいは倫理の問題が考えれるようになった。
エネルギーの問題に関してもこういった観点で考える必要があるだろうと思っている。サンデル教授の白熱教室が話題になって、私も対話型の講義をしているが、こういう議論は哲学の基本に戻るような意味を持っている。サンデル教授が正義について定義している考え方は、大きく三つ。一つは功利主義、人びとの喜びや苦しみを合計して最大化しようという考え方。これは結果から考えるので帰結主義という。二つ目は、自由や権利を主張する考え方だが、それが二つに分かれていて、第一は権利といっても、自己所有というものを軸に考えるので、所有権を重要視する。これをリバタリアニズムと呼んでいて、自由を所有の問題を含めて強調する。経済的自由を強調する。その結果として、規制緩和とか自由化とか、民営化というようなものを重要視するようになってきている。日本でも小泉政権でピークに達した。この流れの中で、国鉄の民営化とか、郵政の民営化が行われてきた。これに対して同じ自由を強調する考え方だが、共通性を重要と考えるコミュニタリアニズムがある。この三つの考え方から、様々な問題を論じている。
では、原発の存続、そして発展というものが正義かというのは根本的な問いだと思う。これは実際の価値に関わる。環境と正義は、環境正義という概念があって、たとえばアメリカで有害廃棄物の処理場がマイノリティーの住んでいる地域に集中して作られる。これは正義に反するのではないかという問い。こういう問いを今言った三つの観点、三つの正義論から考えてみると、功利主義からいえば、経済成長が幸福につながるんだと。しかし、他方で環境にダメージを与えるというその破綻のリスクをどう考えるかと問題がある。リバタリアニズム電力自由化論と関係している。またロールズ的な議論というのは分配を強調するわけだから、環境の観点からの分配。たとえば、原発の立地の問題。その危険はその周辺の一部の地域に特にかかる。コミュニタリアニズムの観点から見ると、共通の善を強調するという考え方で、電力をこういう観点から考えるとどうなるだろうか。
今は、正義という観点を紹介したが、これは現在進行形の議論。しかし、実際には民主主義においてはある地点で決定しなくてはいけない。仮に今、全員が一致して、正義はどちらか、はっきりすれば、問題はないが、それは進行中の議論なので、民主的にどう決定するかということを考える必要がある。それを哲学的な熟議民主主義で説明したいと思う。
公共ということを考えてほしい。公共という言葉は10年ぐらい前から非常に大事になっているが、サンデル教授も私も公共哲学という考え方を強調している。人びとに広く共有されて行動の指針となる考え方。そして、なんらかのあるべき公共性を実現する。それを目指すのが公共哲学といわれるもの。小泉政権のとき、ネオナショナリズムが強かったときは、国家や公が重要であるということが主張された。それから、先ほど言ったように、リバタリアニズム、よくネオリベラリズムといわれる考え方とほとんど同じだけれども、そういうことも強調されてきた。それに対して私たちは、国家や官僚と同じような公ではなくて、人びとが水平的に議論して作っていく公共があるのではないかと。この公の概念と公共の概念を区別して考えるべきではないかと主張してきた。
この公共という観点から、電力の問題を考えるとどうなるかということを今日議論してみたい。
それから公共哲学においては、理想主義的現実主義ということが強調されている。多くの議論は、こうあるべきだという理想論と現実はこうなんだと現実論の二つが二項対立しyていることが多い。これに対して私たちは、現実の中にどうやって私たちは理想を実現していくかというそれを考えていこうというのを理想主義的現実主義と呼んでいる。
原発問題などもある意味では、推進派と反原発派が非常に感情的に対立している構図だったが、311後の現実を踏まえて、理想主義的現実主義から見ると、どうなるだろうかということを考えてみたい。今、脱原発、あるいは自民党までが縮原発とか、超原発とか言い出している状況の中で、二項対立を越えていく方法がありうるのかではないかということ。
新しい公共ということがいわれていて、私たちがいう公共とほぼ同じ意味だが、そういった公共を新しい次元でどう実現していくか。このときに一つ重要なのが、これまで日本の公の概念というのは、日本という国民国家の中で考えられてきた。それはある意味で時代の中で越えられつつある。一つはグローバルな展開が経済から始まったが、今文化や政治でも始まっている。また同時に、ローカルな価値が重要ではないかということもいわれていて、それはグローカルトランスナショナルと私たちはいっている。
同時に時間的にも、現在の世代のことだけを考えるんじゃなくて、過去の世代とか、将来の世代も考えていく必要がある。公共概念も時空間の拡大のもとで考える必要があるのではないかということ。
原発問題をまさにこういった概念から考えることが必要。一つは核廃棄物の問題。それから原発事故の後の汚染水の放出というような公害問題。私はあくまで日本は国内で公害を先駆的に取り組み、ある意味では克服しようとしたけれど、残念ながら地球的な公害問題を発生させてしまったと思っている。
すでに現実の問題では全員で合意できていない問題をどう合理的に解決する。このときに公共的な観点からどう行うかということが議論されてきているが、ある意味では、従来自然科学者が決められるといっていたことに対して、人文社会的な哲学的な考え方を考えることが必要になる。それは、たとえば原発問題、公害問題もそうだが、主流派の科学と退歩的な科学、あるいは市民科学との間の対立があった。これの対立の構図がまだ決定的に終っていないときにどう考えるか。そのときに、プロセス的アプローチが重視されている。このときの考え方は、一部の人が決定するのじゃなくて、公開して、公共的な決定はどうなのかということを考えるために、専門家だけに任せるのではなく、多くの人びとが関わる形で決定をしていこうということ。ですから、科学神話という専門家に任せればOKであるというイメージがあったが、リスクが非常に大きな問題が現れてきて、生命倫理の問題もそう、そしてこの原発問題もそう。ところがこの両方とも専門家の意見が別れている。そのどちらを信用したらいいかということを人びとが考えざるを得ない状況になっている。熟議といっているが、人びとが考えるプロセスが必要。ヨーロッパでは、先駆的に行われていて、コンセンサス会議というのがある。デンマーク、その他の国から始まっていくが、まず専門家がある問題に対して賛成派と反対派にそれぞれの論拠を提示してもらう。その後、今度は一般の市民たちが議論をする。その議論をした後、その結果を公表して、より多くの人びとの決定に生かしてもらう。日本でもこういった試みは、遺伝子治療をはじめとして、生命倫理の問題で行われてきている。
政治学の中でもこういったアプローチが今後の民主主義を高めていくために必要ではないかといわれていて、文科省も熟議の考え方を強調している。
私はこの熟議の考え方の中に、哲学的な入れていくべきだろうと思う。サンデル型の対話型講義とこの熟議民主主義をある意味で統合するような哲学的熟民主義が必要でないかと思う。
対話型講義を一般の方々とやっているが、もう未来館のスタッフの方々の協力で、原発問題を巡る賛成派と反対派にプレゼンをしていただき、それについて議論をするということをしていた。
論点としては、核エネルギーそのものの問題、代替的エネルギーの問題、また当然ながらエネルギー政策の今後はどうあるべきかといった問題。サンデル教授もNHKの番組で二つのシナリオでどちらを選びますかと。それは、安全性を確保するが原発を維持するシナリオと、安全性を重視して原発を断念しその結果としてライフスタイルが変化をするということを受け入れるというアプローチ。今日の「あなたは自然エネルギーのために、一日110円を余分に払いますか?」というのも熟議民主主義のテーマになる。
私たちが行った熟議民主主義では、まずエネルギー問題で、短期的、中期的に原発依存を止めた場合に量的に不足するかという問題。そして、原発のコストが実際に推進派がいうように安いのかという問題、こういった議論をした。コストの問題に対しては、すでに飯田先生にお話いただいたので、省略するが、大体同じようなことがプレゼンで行われていた。
さて、ここで問いというのはどういうものか。電力は必ずしも原発に依存しなくても足りるかもしれないし、コストの面でも実は原発は安くないかもしれないというのは大きな論点。仮に、量的に厳しいし、コスト的にも原発が安いと仮定しても、しかしまだかんがえることがある。道徳的ジレンマ。これが正義の議論。サンデル教授は暴走する路面電車かた入っていくが、私は暴走する原発から。現に福島原発が暴走したわけですし、今後そういうことがまた起こらないとも限らない。そのときに、また事故が起きれば多くの人が家を失う。現実の事例として、一億円の便宜のために10万人に犠牲をしいえることがあるということが果たして許されていいのか。まさにモラルジレンマ。
核エネルギーの根本的問題というのは、まずは危険性。無論自然エネルギーでも危険性があるということもいわれているが、その量と質が地域全体、国家、あるいは地球全体が危険をはらむ。もう一つは核廃棄物の抜本的所有方法がない。この問題を多くの人びとはあまり意識してなかったのでないかと思うが、福島原発事故で、多くの人びとに知られるようになってきたと思う。
日本の戦後のあり方を考えるときに、核兵器との関係も無視はできない。これは原発が広がるということは核兵器への転用が広がり、世界的拡散につながるという、こういう問題もやっぱりある。こういう根本的問題があるので、そういったエネルギーへの依存が正義に叶うかどうかという議論は避けて通れないと思う。
それから、分配的正義の問題。すなわち便益を多くの人が共有するけれど、被害はその地域の人びとが特に受ける。今であれば、福島県、あるいは周辺の人びとが特に受けざるを得ないという状況になっている。だから社会的不平等がある。
それから、使用済み核燃料の問題は将来世代の問題。先ほど時空間的に展開するといったが、この使用済み核燃料は現世代で仮に問題が生じなくても将来世代に問題があるかもしれないということ。ですから、これは哲学的に大きな議論のポイントになっている。
そして、核燃料サイクルの問題には核兵器への転用になるということがかねてからいわれていたわけで、文科省大臣ももんじゅを検討するということを言われたので、この問題の議論も進行することを私は願っている。
原発は正義かと考えるときに三つの大きな考え方があるといった。ごく簡単に、議論の対応を紹介してみようと思う。功利主義で量的に計算できるか、そしてまた将来のことは予測困難だ。三つ目は仮に全体にとってよくても一部の人が犠牲になるかもしれない。この三つの問題が原発を巡る功利主義的な計算、あるいはその正当化には露骨に出てくる。これは計算の中で何を算定するかという問題が根本的になるし、また電力会社の費用効果を考える際には、コストに何を入れるか、先ほどの話にあったような賠償、事前の交付金の問題、こういった問題をどうするかという問題があったが、今まで軽視されてきた。
そもそも今回の事故も含めて、安全対策のコストを少なくするために実際はリスクを犯していたのではないかと。また、事故後の対策においても同じような問題があるのではないか。だから、そうであるとすれば、人災そのものということになる。
ですから功利主義的な考え方で原発が正当化されてきたが、そのことはある意味では問題があったのではないかと。ですから別の観点から考える必要があるのではないかということを意味しているのではないかと私は思っている。
仮に、原発を当面残すというように考えると、これをどのように運営するかというのが大問題。すでに九電のやらせメールで現れているような、あるいは東電のデータ隠しの問題に現れているような電力会社の問題がいわれているし、通産省保安院といったところの関わりが癒着していたのではないかといわれている。
これは戦後政治の問題、すなわち官庁と業界団体、あるいは学者、こういったものの癒着構造が政策を弱めてきたのではないかといった問題。今、政府も保安院の独立ということをいっているが、こういった観点で公と私を今後どうするかということをどうするかを議論する必要がある。
現在東電の賠償が東電だけで賄えないということでスキームが議論されているが、このスキームを考えてみると、基本的には東電が残るという前提でのスキームになっている。これが結果的に、国への負担になってしまうのではないかということが議論されていて、逆に倒産させて法的に処理して一時国有化させる方がいいのではないかとの議論もなされている。ですから、これは公と官、国家との癒着に対する問題として、根本的に電力供給の問題を考えなおして、自由化すべきではないかと。これがリバタリアニズムの考え方。一部自由化が行われたわけだが、発電と送電の分離が一時追求されたけどできなかった。この問題がある意味で今もう一度浮上してきているということ。自由化の問題点というのも指摘はされているが、しかし私は、電力というものは根本的に公共的なものなので、そういった観点から、この問題を考えなおす必要があるだろうと思う。
基本的には、送発電分離のように自由化をするということによって、価格の問題、あるいは癒着の問題、こういった問題に対して良い効果が期待できるし、自然エネルギーや新エネルギーの参入を容易にすると思う。しかし、他方で、送電、あるいはもしかしたら存続する原発を考えた場合、全自由にしてしまうとコストを考えて、安全性が無視される危険もあるだろうと考えて、そういったところは公共的な電力という考え方を導入したらどうかと私は思っている。NHKと民放のように放送でも二元性があるので、電力も今後こういった形で公共性を考えて、自由化したうえでの運営体制を考えてたらどうかと思う。
この公共性という問題は、危機のときも色々な形で表れていて、作業員の問題で指摘されていて、現場が非常に不正義な部分があると思う。一方で一生懸命にやっているという美徳というものを改めて認識することにもなるだろうと思う。
コミュニティというものも先ほどいった地球的な公害、反面で世界の人びとが日本に同情してくれたわけだけれど、そういう地球的なコミュニティの可能性もあるのでないかということをサンデル教授も含めて、指摘していた。
ということで、結論として原発は正義か、私はコスト計算に基づいて人命を犠牲にするような功利主義的な発想というのは根本的に友愛の精神に反しているのではないかと。原発推進が理論的にすべて不正義だと断言できないにしても、従来の態勢は不正義であったといわざるを得ないと思う。
そこで友愛の正義に叶うエネルギーの態勢というものを考えていく必要があるだろう。選択肢としては、即時脱原発、あるいは停まっていくものをそのままにすれば原発は短期的になくなる。段階的脱原発、そして三つ目、まだすぐに決定ができないのなら、広範な議論を展開する。しかし、電力態勢の大転換というものが急務だと私は思う。ですから、公共哲学の観点から、理想的現実主義で考える場合に、やはり二や三を推奨するということができるだろうとし、これが今後の新しいビジョンにつながっていくのではないかと思う。
エコロジカルセルフと私はいっているが、自己というものが環境の中に存在している自覚が必要である。しかもそれをエネルギーの面にも及ぼしていくということ。コミュニティのあり方をエコロジカルの考え方かた考えなおす。エネルギー分散のあり方、あるいは地域コミュニティの電力態勢の問題。それから公共善という考え方から電力を捉えなおして、運営体制も考えなおすということ。
また、共和主義ということをサンデル教授や私が強調しているが、自己統治を強調する。今まで電力は買うものだったけど電力をどう作って、どう利用するかという自己統治をエネルギーについても考える時代が到来した。太陽パネルを自分の家に設置するというのは自己統治の端的な例。あるいは複数の電力会社の中でどれを選択するか、そのときに電力会社の供給方法を見て選択するということになれば、これも自己統治の一貫。そういうときに我々は公共的な美徳を考えるということが可能になる。ですからもし高くてもそういうエネルギーを購入するというのがエネルギー的な公民的美徳である。
そして最後に、日本の戦後を考えた場合に広島、長崎という原点があるので、こういった被ばくがまた原発の被ばくという形で起こってしまったが、これを機に核問題全体について広範な議論が起こってくれればいいと思っている。
この後、ワークシートに記入した一次エネルギー供給源予想をもとにディスカッション。ドイツがフランスから原発電力を買っているのは問題と聞いた人がいた。ドイツは電力を輸出している国であったことを飯田さんが説明した。また、自然エネルギーの電力が不安定であることを心配する意見もあった。安定供給とはなんぞやということをみなさんはテクニカルによく知らない。変動が直ちに供給を脅かすと思われているが、それは誤解。事実から確認すると、安定供給を脅かしたのは何か。この春、地震が起きて、原発と大規模な石炭火力が一切に止まった、これこそが安定供給を脅かした。しかも東京電力計画停電という名の無計画停電という、蛇口の大元を一気に止めるようなことをした。過去、1998年には大飯原発で火災が起き、原発が止まり、京都大停電が起きたことがある。2003年に東電トラブル隠しで、16基を一斉に止めざるを得なくなり、その夏も厳しい電力需給だった。2007年には中越沖地震が起きて、東電柏崎電発が一斉に止まって、やはり非常に厳しくなった。電力が安定に供給できるであろうというセキュリティを脅かされるのは、巨大電源が一斉に失われた場合のこと。そのことの事実をまず見据えないと、自分の中の印象と思い込みでこの不安定な風力が安定供給を脅かしているんじゃないかと思うのは、完全に電力会社や従来の御用学者がいったことによる先入観に騙されている。風力発電の変動はまったく問題ないかというと、もちろん問題がある。乗り越えないといけない課題がある。それは安定供給の問題というより、基本的には周波数変動とか、電気の量を風力発電で大量に電気が生まれたときに需要地に流していく潮流変動が問題であって、テクニカルな問題であって、安定供給というものをもう少し精密に見たほうがよい。そのうえで、スペインの例で説明すると、スペインは日本の半分の電力に10倍の風力が入っている。設備容量にすると20%。瞬間的には電力量の6割を超える電力を風力発電でまかなっている。風力発電を始め、太陽光発電バイオマス発電を変動するベース発電といっている。需要も時々刻々変わっている。電気は貯められないから、時々刻々変わる需要に電力はたえず合わせないといけない。ベース電源は需要に対して応答できない電源。波打っていても安定していても需要には追従できない。ガスと水力が自由に伸び縮みして需要に追従させる。だから、日本でも当面は大丈夫。10年後はスペインと同じようになると思われる。風力発電の発電量は気象データなどから予測できる。それに合わせてスタンバイ電源をスタンバイさせておく。最新のテクノロジーを使いながら、分散型の発電をどうコントロールするか。この10年間のITの進化を思い起こせば、電力供給の進化についてもこれから10年間でも起こりうる。
4時15分過ぎにトークイベントが終わり、帰宅。息子はサッカーの練習から帰ってきたようだったが、夏祭りに行ってしまったようで、いなかった。
しばらくして、妻がサッカーのお茶当番を終え、帰ってきた。
息子が帰ってきたのは8時半過ぎだった。