from上海to東京

子育ての日々の断片を書き綴る

クオリアと偶有性

茂木健一郎さんの講演から。

科学的文脈でクオリア(Quolia)を論じたい。クオリアとは、数値化などが難しい、意識の中の様々な質感のこと。これが脳科学の最大のテーマになっている。クオリアは私の専売特許ではなくて、脳科学では過去10年ぐらい世界的なトレンドで、これをどう解くか。
脳の中に1千億の神経細胞があって、それが活動する。活動したときに意識の中でどのようなクオリアが生まれるか、その対応関係をマッピングしようというのがまともな科学者がやっているリサーチプログラムである。
クオリアを社会との関係でみると、様々なスペクトラムがあるということが極めて重要で、浅いクオリアと深いクオリアがある。浅いというのは、脳でいうと感覚野である程度完結するもの。色とか形態とか。そういうものを浅いと呼んでいる。それに対して、車両感覚のようにインタラクティブに自分もアクションを起こしてある程度対象と付き合ってみないと分からない深いクオリアもある。社会の中で、あるいは商品やサービスとして流通しているモノの中で、人々の中で吸引力があるというモノは、すべてのスペクトラムがあるモノである。
人はクオリアにプレミアムを認め、それなりの金を払う。高級ワインには高級ワインにしかないクオリアがある。究極は美術作品で、ずっと見ていても厭きない。
衣食が足りた人間にとっての欲望のほとんどは脳で作られるという事実がある。脳にとっての栄養素というものがある。生物学的に必要な直接的なものでは説明できない。それはクオリアとしかいいようがない。
感性工学だとかそういう領域で、人間にとって快適なものは何かという方程式を求めて、それに対して適用というか、最適化するというアプローチがあったが、そういうのはことごとく失敗している。たとえばハリウッド映画の方程式を解析して、それに基づいてシナリオを作ったら、興行的に成功するような映画が作れるかといったら、できない。
従来の感性に関する理論というのは、偶有性(Contingency)という極めて重要な概念を忘れていたからだ。
これは現在を象徴するような概念である。大学なんかに行っても無駄といわれてもアカデミズムが有効な対抗できない。偶有性というものが社会を支配しているのに、大学には偶有性がない。どうなるんだろうというものが人の心を引きつける。時代は明らかにそっちの方に行っている。
偶有性とは、半ば規則的、半ばランダムなもの。まったくランダムなものは人を引きつけない。たとえば、サイコロの目がどう出るかなんてランダムなものだけど、サイコロを100回振ってどうなるんだろうと見ていてしみじみ面白いという人はあんまりいない。
人との会話が最も偶有的なものである。会話はある程度は予想がつくが、何をいい出すか分からないというような性質をもっている。脳はそういう形でランダムというものをある程度頭の中に栄養として入れないと生きていけない。
ランダム感というのは学習機会を与える。ある程度予想できないものがないと学習ができない。人間の脳というのは一生学習し続けたいと、そういう性質をもっている。
脳の中でクオリアとしてはっきり認識されるものというのは、一丁上がりなものであるが、一番面白いのは、どうなるのか訳が分からないもの、つまり偶有性があるものがりっぱなものになっていくということだ。我々はその両方を引き受けないといけないが、その背後に偶有性があるということを忘れてはいけない。
偶有性があるものがりっぱなものになっていくという、この移行のプロセスをどう理解するかということが非常に重要。脳の中のダイナミックアダプタビリティ、動的に環境に適応するということと、認知的に安定性を保つということをどう結びつけているかということが重要になる。
今見る夕日と5歳に見たときの夕日では、色のクオリアとしては同じだが、喚起される感情が違う。どういうことかというと、我々の認識の中では安定性を保つものと、動的に適用するものがある。その二律背反をどう成立させるかというのが脳の命題だ。
脳の記憶というのはコンピュータの記憶とまったく様子が違う。コンピュータの記憶というのはずっと変わらない。脳では情報が長期記憶という形で側頭葉に蓄えられるが、ずっとそのままでいるわけではなく、編集され続ける。
ラビリティ(Lability)という概念がある。普通記憶というのは一度定着されると思い出す度に強化されると思うわけだが、最近の研究でエピソード記憶なども含めて、記憶が想起されたときに不安定な状態になると分かった。思い出したがために、改変を受けたり、場合によっては消えてしまったりするということが分かった。脳というのはダイナミカルに編集され続けられているものだ。