from上海to東京

子育ての日々の断片を書き綴る

想定外が想定外

大越健介の現在をみる「想定外、いや問題外

大越)
郄村さんが、一番衝撃を受けられたことは、どんな点だったのでしょうか。
郄村)
私にとって一番ショックだったのは、まさに科学技術の専門家の方々が、当然想定しなければならないことを、想定していないということが一番ショックだったです。それは、最先端の知見や技術を、応用して実用化するときに、様々な不確実性というのがあるんですけど、その不確実性に対して、ここまで想定しておこう、ここから先はいいだろうという一つの決断をするときに、問われるのはまさに、技術者のモラルということですね。これがなかったということが、私にとっては一番ショックですね。「まさか」です。まさか、これは当然考えられているだろうということが考えられていなかった。

大越)
私は、昨日おととい、東京電力の説明会というのが、飯舘村でありまして、そこをみてきたんですが、「責任を痛感しています」といって、2時間半平謝りで、住民たちの罵声に耐えるという、ある種の通過儀礼なような、残酷な言い方ですけれども印象がありました。なにか世の中全体が、この問題の所在を、結局東電という一事業者に責任を集中させて、よかれとする風潮が果たしてないかどうかということを疑問に思ったんです。そういったことをお感じになることはありませんか。
郄村)
感じますけれども、東電に、東電一人を悪者にして、なにか片づくかといえばなにも片づかない気がします。そもそも東京電力という電力会社が、どうして想定すべきことを想定しないような、そういう体制で、今日まで事業を営んできたかというようなことを、きちんと検証しなければなりませんし、それを検証していきますと、やはり私たちの社会がずっと築いてきた産業構造の問題ですとか、地方経済をどうやって回すのかというような問題ですとか、いろんなことが関わってくる。その中で、本当であれば、電力の自由化をもっとすすめて、海外がみなそうなっているように、発電と送電網を切り離して、もっと透明性を、公益性がありますので、透明性を高めた、システムへ作り替えていかなくてはならなかったんだと思うんですね。それが、今もできていない。今もできていない中で、東電が、原発の運営一つとっても、どうしてもその社会の目の届かないところで、あるいは消費者の意見の届かないところで、どうしても内側の論理で固まっていかざるを得ない。そういうシステムの中にいた、これは私たち日本の問題だと思うんですね。日本の国のかたちの問題だと思う。

大越)
目を逸らさずに自問自答していく上で、一方で、最近の世の中の意向調査などをみると、原発と共に生きていくしかないとか、原発容認というのがやっぱり半分くらいあったりします。あの、これだけのことがあっても、今の豊かな電力供給を原発が担っている限りは、私たちはそれに乗っかって生きていくという道を、無意識に選択している人も多いですよね。それに対しては、どういったご感想をお持ちでしょうか。
郄村)
私は、今回起きたことから逃げずに、これが現実だという風に向き合ったときに、これまでと同じように生きるという選択肢はないんだという風に思っています。もちろん世論調査の結果にも現れていますように、多くの方が、「そうはいっても電力どうするんだ」とおっしゃるんですけど、これまで非常にその原子力政策というのは不透明でした。そこで、一度、この地震国で、原子力発電をするときのコストを、もう一度冷静に計算し直してみる必要が絶対にあると思うんです。それはたとえば、耐震化工事にかかる費用、あるいは、こういう事故が万一起きたときの、いろんな補償とか賠償とかの費用、あるいはこれはずっと問題になっておりますけれども、放射性廃棄物の処分にかかる費用、あるいは再処理の費用、そういう費用を全部コストに加えて、いったいこの日本で、原子力発電を維持していくためのコストというのはどれくらいかかるのかという計算を、冷静にしてみることだと思います。その上で、私たちが、それでも原発を使うのか、あるいは、こんなにお金がかかるのであれば、本気で代替エネルギーの開発にシフトしてもいいのではないかと、それこそ私たちの選択にかかっているんだと思いますね。私は素朴な今回素朴な疑問として、昔からいわれていることですけれども、東京や大阪に作れないものを、人口の少ない地方に作ってもいいのかと。東京に作れないものを、地方に作ってもいい理由はあるか。基本的な人間としての、社会としてのモラル、その問いを発してもいいんではないかと思っています。