from上海to東京

子育ての日々の断片を書き綴る

土曜日なのに子どもを保育園に預けた

私は会社を休んで某主催のセミナーへ、妻は人材募集会社が紹介してくれた会社の面接を受けるために出かけることになり、子どもは保育園に預けることにした。もう休みであることは分かるので、ぐずるかと思っていたが、素直に行ってくれた。8時半過ぎに保育園に着いたが、15人ぐらいの園児が遊んでいた。この保育園に通っている園児の両親で自営業をやっている人たちが割と多いようで、土曜日も子どもを預けるうちが少なくないようだ。
妻は10時から面接と言っていたが、道が分からないからと早めに出て行った。
武田徹さんに刺激されて、ハバーマスでも読んでみようとセミナーに出かける前に図書館に行った。ハバーマスが書いた本ではなかったがタイトルがいいので「ハイデガーとハバーマスと携帯電話」を借りることにした。ほかにハバーマス自身が書いた本も借りないと思い、探してみたが、ほとんどが書庫にあって閲覧できない。それで薄そうな「遅ればせの革命 」という本も借りることにした。「遅ればせの革命 」が書庫から出てくるのに15分かかるというので、椅子に座って「ハイデガーとハバーマスと携帯電話」を読み始めた。ケータイを題材にコミュニケーション論を論考した本のようだが、面白しろい本だった。長年コミュニケーションに関連する仕事を続けているが、今までコミュニケーションという言葉を深く考えたことはなかった。コミュニケーションを単に情報伝達のことだと捉えている人がこの本を読むと違和感を覚えるだろう。

ハバーマスにとって、真のコミュニケーションへの鍵は「理解」である。彼の言うコミュニケーション的行為とは「理解に達することを目指して言葉を使うこと」だ。コミュニケーションの行為は、共有される行為なのである。
理解に達するというのは、話と身ぶりをする人どうしの間で合意に達する過程のことであるとみられる。
ある事柄について人々が何らかの了解に達する過程があるとき、このコミュニケーションはやっと成立するのである。さらにハバーマスは、これと対比をなすものを「手段の」行為、ないし戦略と呼ぶことを考えだしたが、こちらはもっぱら個人が支配権を握って個人の目的を果たすことである。
成功しようとする志向、それに対して、理解へ達しようとする志向・・・戦略的行為とコミュニケーション的行為は、それぞれそうしたものとして分類される。
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人々はなぜコミュニケーションをとるのか。ケータイの観点では、考えられるそれらしき理由はただひとつ、欲望の原理である。
これは人々がコミュニケーションをとることを「望んでいる」ということではない。それはモバイルの世界でいちばん奇妙なことのひとつである。逆に、人々は他の欲望を満たすためにコミュニケーションをとるのだ。ケータイは一般的に欲望を満たすための入り口なのである。

ケータイの普及のお陰で、情報のやり取りは容易になったが、相互理解は遠のいた気がする。話すことだけでなくメールも一方的なメッセージの交換に過ぎない。そういう自覚がないまま生活にケータイが溶け込んでいく。

これからはシステムがわれわれのかわりにコミュニケーションをとってくれるのだ。
望むものをできるだけすばやく登録するだけ。そうすればわれわれが直接関わらなくても、メッセージが勝手に行き来してくれるし、これからはコミュニケーションといえば、主にそういうもののことを言うようになる。言い換えれば、完全なモバイル化時代においては、コミュニケーションとはまず何よりもシステム内の流れのことを指すのである。声とかそういったものは、この通信のうちごく小さな一面にしか過ぎなくなる。その結果、哲学者たちの側から見ると、「コミュニケーション」という語が、その正反対の「システム」という語に乗っ取られてしまうことになる。

システムの要求に従って行動するだけの生活。もうかなりの部分がそうなっているな。今日の行動は「本日のおすすめ」ページに従って決め、目的地へはナビゲーションシステムに従う。gamerにはシステムに判断を仰ぐのは何の抵抗もないだろう。
セミナーから帰ってくると、妻は中国にいる知人に電話をしていた。電話の様子から、面接に行った会社は気に入らなかったようであった。かなり長く話していて、ようやく話し終わって聞いてみたら思った通りだった。