from上海to東京

子育ての日々の断片を書き綴る

チベット問題(7)

JMM『「国際接軌と全球化」:現地メディアに見る中国社会』

「418事件でぼくははっきりと目にした。多くの人たちもビデオを見たはずだ。それを形容する言葉は、暴力、破壊、強奪の三つだ。愛国って、まずは自分の同胞を愛することじゃないのか? おまえら大学生は多少法律について学んでるはずだろ? 
まず、お前たちは自分が法律に反していることが分かっていない。正規のスーパーのキャッシャーをぶち壊し、アドバルーンを引きずりおろすなんて、深刻な破壊行為だ。次に、ぼくが目にしたのは、義憤にあふれた中国人の群れが一方で毎月数百元たらずの収入しかないスーパーの中国人職員をいじめる姿だった。そのシーンには一人のフランス人の姿もなく、一人のアメリカ人の顔もなかった。両方の中国人がなんの目的で戦っているのか、そしてそれに勝った方がどんな実際的な援助を受けられるのか、誰も知らなかった。見たところ、暴力、破壊、強奪がその最終目的だったようだ」(「三色旗の氾濫は長く練られたものだった」連岳的第八大洲・4月21日)
・・・・
文中の「暴力、破壊、強奪」とは、中国政府がチベット騒動を呼ぶときの言い方でもある。この書き手は、「中国人なら代価が最小で基本的に誰も追及しないだろうが、もし本当にフランス人に手を出そうものなら多くのトラブルが引き起こされ、その代価は大きく、償いも決して簡単ではないことを彼らは知っており、その結果、同胞に八つ当たりすることが最も妥当な方法だと選択したのだ」と言う。
そんな同胞への八つ当たりは、先週には身体で聖火を守ったことで「最も美しい」と英雄視された、車椅子の聖火ランナーである金晶さんがカルフールボイコットに反対を唱えたとたん、「売国奴」と呼ばれるようになり、その身体的障害すらも揶揄されるという形で現れた。また、アメリカのデューク大学では、青島出身の中国人留学生、王千源さんが学内でチベット解放派の西洋人学生と中国政府支持派の中国人留学生の真ん中に立って話し合いを呼びかけたところ、チベット解放派のグループをバックに、中国政府支持派に向かって(まるで対立するかのように)立っている写真をウェブサイトに掲載され、あっという間にこれまた「売国奴」と罵られるようになった。
・・・・
「統一されたくちぶりの『愛国』のスローガンは確かに人心を鼓舞させ、我われは団結した自信に満たされる。しかし、ここ60年来の中国史を見ると、我われはこのような情熱を欠いたことはなく、逆にこのようなあまりにも統一された情熱によって災難が引き起こされてきた。我われにはこれまで愛国の想い、そして自立自強、西洋との競争闘志も欠けていないが、われわれはいつも『勝てるはず』といった気概でミスを犯し、なんどもそれを繰り返してきた。我われは自分を善良と呼ぶかもしれないが、このようないわゆる『善良』さがもし、我われの集団知性において痕跡をとどめなければ、無知やおろかさとなんの違いがあるのだろう? 60年という時は短くない。13億の人々が腹を一杯にして暖かい服を着られるになったのに、なぜ我われの国民性には明らかな進歩も見られず、『西洋社会』『西洋メディア』『反中』などといった問題を深く理解するにあたって、むやみやたらに昔の『円明園炎上』事件をその根拠とし、何かと日ごろは非常に友好的な外国の友人に対して困惑したり、失望したりするのだろう? これらの苦境が意味するのは、我われの世界に対する認識、文化の改造という面がなんの成長もないことのほかになにがあるだろう?」(「飛び起きた後で」連岳的第八大洲・4月19日)
・・・・
「我われの時代は政治が表面化、姿態化している。しかし、最後に決定的となるのはそんな表面的なパワーではないということを人々はたびたび忘れている。ヨーロッパの政治家が見せるような一時的なおごった姿は脆弱で躊躇する運命にあるのだ。一旦、中国が強大な国家パワーを手にすれば、制裁なんてどれもなんの意味もなさなくなる。さらにいえば西洋の新たな世代の政治指導者はすでにいわゆる内在原則と理念を失っている。これまで20年間、北京は今よりももっと深刻な孤立に直面してきたのだ。ぼくが心配なのは、中国内部の腐食である。その表面はこれまでどおり強大だが、社会内部は腐れ、そこに暮らす人々は知力、情感、そして道徳上の尊厳と信念を失っている。そのような意味からしても、中国は人々を恐れさせ、たじろがせるような覇権にはなり得ない。英紙『ロンドン・タイムズ』のコラムニスト、マイケル・ポーティロは、今年の北京は1936年のベルリンよりもおろかだと語っている」
(「許知遠:チベット宣伝戦の背後」亜洲週刊・4月20日号)