from上海to東京

子育ての日々の断片を書き綴る

今日は素直だった

短い年末年始休みが終わって、今年の初出勤日。
妻も子どもも早く起きた。「飛行できたよ」と言うと、「ありがとう」と返事はしたが、それほど喜ばず。
朝食は妻が用意をしてくれて、今朝は楽ちん。子どももぐずらず、順調に朝の支度が終わり、保育園へ。一番乗りだった。保育士さんが二人しか来ていなくて、今日は保育園に来る園児が少なそうな感じだった。保育園でも子どもは支度を手伝い、早めに戻ることができた。
妻はまだ用意ができていなくて、雑紙と空き瓶と空き缶を持って、先にうちを出た。バスもガラガラでいつもより、早く駅に着いて、いつもより早めの電車に乗り、空いた席に座り、図書館から借りて読んでいなかった、文藝春秋(2006年)新年特別号の「司馬遼太郎さんの予言」(養老孟司著)を読む。

そもそも「歴史(history)」とは「イストワール」「ヒズ・ストーリー」つまりは「物語」であって、極めて個人的な営みであろう。そこには主観しかなく、客観などありはしない。
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いまの社会の特性を列挙すると、行政管理の精度は高いが平面的な統一性。また文化の均一性。さらにはひとびとが共有する価値意識の単純化。たとえば、国をあげて受験に熱中するという単純化へのおろかしさ。価値の多様状況こそ独創性のある思考や社会の活性を生むと思われるに、逆の均一性への方向にのみ走りつづけていうというばかばかしさ。(14 江戸期の多様さ)
確かに価値意識の単純化は、今も「感覚」からどんどんと離れていく方向に進んでいる。たとえば今の科学の世界は、ナノテクノロジーや理論数学的なものなど「感覚から外れたもの」が新しく、リアリティがどんどん失われている。手で触れたり感じたりする分野をやっている科学者は「遅れてる」のだそうだ。

8時過ぎに会社を出て、スーパーに寄ってから9時過ぎにうちに帰る。「ただいま」と言っても、子どもはテレビ画面を見たまま返事をしない。「パンダコパンダ」を真剣に見ていた。妻がご飯を温めて持ってきて、「あっ」と言ってお茶碗を落とした。幸いお茶碗は割れなかった。食事をしている途中で今度は私が豚汁が入った椀を倒して、こぼしてしまった。
子どもは先にお風呂に入り、「もうい〜くつねるとぉ・・・」とお正月の歌を唄っていた。お風呂に入って、「今日は保育園に何人来てた?」と聞くと「○○ぐみはさんにん。○○ぐみは・・・・」。全部合わせても十数人しか来ていなかったようだ。
「えほんよんで」と言ってきたから「今日はまだやることがあるから、先に寝て」と答えると、素直に「おやすみ」と言って寝てしまった。