十年前の戦後五十年に、日本は「痛切な反省の意と心からのおわび」を世界に表明した。以後も政府は、同じ趣旨のことを述べてきた。残念だが、それが本心からのものとしては理解されていない。その現実を戦後六十年の今こそ、重く受け止めたい。
東京新聞。
反省を忘れると、過ちを繰り返す。敗戦から六十年、最近の外交の行き詰まり、それをめぐる政治や世の中の動き、空気を見ているとあらためて心配になります。
中日新聞。
外交が行き詰まり、国内に不満がたまると、武力を背景に相手を従わせる誘惑に駆られる。これが戦前の誤りですが、いまは憲法が歯止めになっています。これからの憲法論議で忘れてはならない部分です。
神戸新聞。
記憶の薄らぎとともに、わたしたちの想像力はしぼみ、戦争は人間の輪郭をともなわないものになりつつあるのではないか。
それに正比例するかのように、「普通の国」になるべきだという声が高くなってきた。この夏、自民党が発表した憲法改正草案の一次案は、自衛「軍」を保持し、「国際社会の平和および安全確保」のために自衛「軍」を使い、海外での武力行使にも道を開いている。集団的自衛権も自衛に含まれるとして、明記こそしていないが容認した。「一国平和主義は通用しない」が改憲を主張する人々の論拠のひとつだ。
イラク戦争にみるように、唯一の超大国による「力の支配」に歩調を合わせ続けることが、国際貢献なのだろうか。
わたしたちには、想像力を取り戻す努力が要るだろう。戦争では、なにが起こり、だれが、どのようにして、いのちを失うのか。六十年前の名前をたどるのは、その有効な方法だろう。いまが最後の時かもしれない。
中国新聞。
長い歳月の中で、できることならば触れたくない「加害意識」の風化は進んでいく。しかしそれに安住していたのでは、被害を受けた人々との感情の「すき間」は広がるばかりではないか。小泉首相が不用意に発した「罪を憎んで人を憎まず」は、その一つともいえよう。
日本がアジアの人々の信頼を取り戻すには、意識的な努力が要る。遠回りだが一人一人が「過去の記憶」をすくい上げ、身につけることが大切ではないか。
政治の場で動き出した憲法改正論議からは、その強い意志が浮かび上がってこない。むしろ戦後的価値を否定しようとする議論が目立つ。気がかりである。
同盟国との関係を保つことや国際的なメンツなど「当面の利害」にとらわれすぎてはいないだろうか。
将来にわたって「この国のかたち」を律する憲法の論議である。戦争の永久放棄を誓った原点である「敗戦」をかすませ、平和を切実に求めてきた私たち日本人の戦後の価値観を否定することがあっては、絶対にならない。
産経新聞。
「経済大国・政治小国」と揶揄(やゆ)もされるアンバランスな国でありながら、そのことに痛痒(つうよう)を覚えない二重の意味で特異な国として、戦後の大半を過ごしてきた。ようやくいま憲法改正を望む世論は半数を超す。
読売新聞。
「60年」という区切りにどういう意味合いがあるにせよ、そうした国民的な歴史論議を始める「時代の節目」を迎えているのではないだろうか。
朝日新聞。
冷戦時代が終わって15年。内も外もつくづく難しい時代だ。摩擦を覚悟してやり通すべきは何なのか。和はどこに求めるべきなのか。60歳になった戦後日本に求められるのは、そんな勇気と思慮である。
毎日新聞。
突然の総選挙は、首相の思惑を超え、日本人の戦後意識を揺さぶろうという“天命”かもしれない。きょうは終戦60年の記念日。還暦は「生まれ変わり」の時だが、新たな戦前の始まりにしてはならない。
肥大化した官僚組織は国民の災いのもとになる。構造改革は巨大化した政府組織をスリム化する試みである。活力ある経済社会と文化国家をめざし、主権者である国民の努力と責任で「小さな賢い政府」をつくり上げることが戦後60年を超えた21世紀の日本の課題である。