小橋昭彦さんの「ざつがく・どっと・こむ」から。
何人かが犯人を目撃し、その人たちが写真ファイルあるいは面通しで共通した人物を犯人と指摘する。すると捜査側は間違いなくその人物が犯人であろうと考える。ところが、容疑者が逮捕された後で真犯人が名乗りでる、それが目撃証言と似ていない犯人だった、そんな事件が少なからず発生している。
これは、ぼくたちの過去に関する記憶が、思い出すという行為の中でゆがめられてしまうからなのだ。証言をとる警官の質問、マスコミによる容疑者報道などで、思い出は容易にゆがめられてしまう。証言心理学の先駆者、米国のロフタス博士は、交通事故のビデオを見せた後、被験者に現場にガラス破片が散らかっていたかをたずねる実験をしている。このとき「激突したとき」とたずねると、「衝突したとき」とたずねたとき以上に、実際には散らかっていなかったガラス破片を散らかっていたと証言する人が増える。わずかひとことの違いが記憶を変える。
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ノースウエスタン大学の研究者らが昨年発表した実験結果がある。被験者に磁気共鳴画像装置に入ってもらい、単語リストを見せながら、それぞれの単語が表すものを思い描いてもらったもの。なかには実際にその写真を見せる単語と、想像だけしてもらう単語がある。その後、写真を見たかどうかを答えてもらう。被験者は写真を見たと誤って答えたケースがあった。そして誤って記憶していた事例では、実際にイメージを作り出すのに関わる脳の領域が活性化していた。
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記憶が書き換えられるものとすれば、その積み重ねを記述した歴史ってなんだろう。おそらくそれは、地層のように積み重なっているものではなく、記述する人の観点から見た記述にすぎない。
と。聞き取り調査をして書かれたものであっても信頼できるとは限らないってことだ。残された史料に依拠して書かれた歴史書にはもっと信頼できないものと思って対峙しないといけないようだ。