from上海to東京

子育ての日々の断片を書き綴る

サバイバル論

知人に健康によいとリンゴ酢をもらったので、毎朝蜂蜜と水を足して飲んでいる。最初の頃は、毎日スプーン一杯ぐらいずつしか消費しないので、減っているようには見えなかった。今残り3分の1ぐらいになった。そうすると減ってきているの目に見えて分かるようになってきた。なくなってしまうことが実感できるようになった。なくなる前に1本買っておこうかという気持ちなってきている。資源なんかそうだけど、あと残り僅かってことが目に見えるようにできないのかなあと思う。供給不足不安で原油価格は高騰すれど、省エネの声は高くない。というようなことを考えていたら、「My Life Between Silicon Valley and Japan」に、

半分まで入っているコップの水を見て、「半分しか」(残っていないぞ大変だ)と思うか「半分も」(残っているから安心だ)と思うか。僕自身、生きていくさまざまな局面で、「半分しか」と「半分も」を使い分けている。

とあった。半分だったら、まだ安心領域で余裕があるから冷静な判断が下せる。でも、半分だとほとんどの人は何もしない。残り僅かと言われると焦る人が出てきて大騒ぎになるだろうけど、残り半分ぐらいのときに対策を講じてもその対策の有り難みを感じる人がほとんどいないまま時が過ぎてゆくことになる。それがいいのか悪いのか。予防みたいなことって難しい。
ところで、梅田さんが「これから10年先のことを見据えたサバイバル論」みたいなことを書かれているけど、梅田さんの眼中にあるのは、あるレベル以上の人たちのことだけのように思える。徳保さんという方の「勉強のできない人から職を奪う生き方の提案」を紹介されているが、

こちらのほうへ向かっていく生き方はあります。だから、僕が「全く役に立たない」とか「使い物にならない」と表現したのは、厳密に言うと不適切でした。でも、徳保さんのおっしゃるような「生き方」で「食える」だけでなくちゃんと幸福になるためには、「勉強能力」とは全く異次元でもっと奥の深い「人生の達人」的素養を実は必要とします。

と書かれているだけ。6割、7割の人が飯を食うために面白くもない仕事をしていて、そういう人たちがいるお陰で世の中成り立っている。そういう人たちは、勉強はできなくても『「人生の達人」的素養』を持って生活しているってわけだ。『「人生の達人」的素養』ってあったっけ。前に

「飯を食うための仕事」と「人生を豊かにする趣味」はきっちり分けて考え、「勉強好き」な部分というのは「音楽好き」「野球好き」「将棋好き」と同じ意味で後者に位置づけて生きるものなのだ、と考えるってのはアリなのかもしれないなと思い始めているのである。

って書かれていたから、住んでおられる世界が違うんだろうな。思い始めなくても最初からそうだもんね、普通は。