from上海to東京

子育ての日々の断片を書き綴る

息子の4年生が終わった

samso2012-03-22

5時前に目が醒め、5時15分過ぎに起床。
朝ごはんを食べ終わって出かける支度をしていると、息子が起きてきた。
息子の昼ごはん用にカレーを皿に盛って、うちを出た。
気温は相変わらず低かった(最低気温1℃)が、昨日のように風が吹いておらず、それほど寒くはなかった。
天気予報では17℃まで気温が上がると言っていたが、曇り空で15℃どまりだった。
iPhoneを見ると、自宅から電話がかかてきていたので、電話すると息子が出た。友だちが来ているようだった。「成績上がった」と言ってきた。
今日は5時15分過ぎに会社を出た。
帰宅すると、息子はテレビを見ていた。夕飯の支度を始めると、通知表を持ってきた。「よくできる」が1つから2つに増えていたが、体育で「もう少し」が1つあった。平均したら、同じ。「身の回りの整理整とんをし、物を大切にする」が相変わらず、「もう少し」だった。総合学習の2分の1成人式では、「ゲーム会社の社長になるという夢を堂々と発表しました。親からの手紙を読み、改めて親への感謝の気持ちをもつことができました」と。また、持って帰ってきた「二分の一成人証書」には「社会情勢についての知識」がとても素晴らしいですと。
夕飯を食べ終わると、寝室に行って、ボール遊びをしていた。体を動かしたいようだった。
9時頃に妻から電話がかかってきた。
お風呂に入って、9時45分過ぎに寝に行った。

金子光晴「くずれゆくもの より」

丸の内ビルディングの何階であったか、おぼえていないが、世界の陶器の名品の展覧会が催されていた。大正十二年九月一日、正午に近い時刻である。
吸いつけられるように見入っていた人たちは、その瞬間、中風の前ぶれのめまいに似た、中心の失われたよろめきとともに、精神のアンバランスに襲われて、顔から血の気がひいてゆくのをおぼえた。同時に、飾り棚のなかの、陳列された、値のつけようもない天下の稀品の、グレコロマンの玻璃瓶や、ペルシャの壺や、唐の三彩の陶磁器が、見ている前で、ころころところがり、おどりながら棚から落ちて、たわいもなく割れてゆくのだった。
それほど唐突に、なんの前兆も先ぶれもなく、関東一帯に大地震がやってきたのであった。
地盤のゆるい、人口の濃密な東京の下町と、川の多い横浜が、もっとも被害甚大であった。地震による被害よりも、つづいて起こった火災の被害が大きく、山の手からみると、ちょうど日本橋あたりの方角に、不気味な朱いろの大竜巻が立ったまま、二昼夜のあいだ、じっと動かなかった。
・・・
この災害で、死者は九万人を越え、財産の損失は、計上できないほどであった。しかし、そればかりでなく、人の心に与えた荒廃と不安感は、ひびのふかさとなって、それからの日本人に、なにかがくずれてゆきそうな個所をのこした。ひたすら鰻登りの明治以来の運勢が、ここにきて、なにか一頓挫をきたしたことを、言わずかたらずに、だれも感じあい、うなずきあって、そのしこりをながく抱いていたものであった。
不動のものとして、腰をおろしていた大地が、その根底をゆるがしたというこの実感は、同時に、不動のものとして考えていた財産、生命、ひいては国家の権威についても、乗りかかって安閑としていられないという、不安感にも通じるものであった。もちろん、それについて、まったく信用を失墜させたというのではない。災害がおさまるとともに、回復にむかったが、あの瞬間の絶望感はふかく人びとの心にのこり、日本人のもつ心の割れめともいうべき、仏教的な無常感や、もっと現実的な人間の不信感にまでもつながって、ようやく染みついてきた個人思想の根を掘ることになった。大正のヒューマニズムのほかに、大正のニヒリズムが一つの特徴化され、それがしだいに、大衆のあいだにも浸潤してゆくことになった。