from上海to東京

子育ての日々の断片を書き綴る

息子のラグビーの初練習だった

samso2011-01-09

7時前に起床。
朝ごはんを用意し、7時半に息子を起こした。中央公園のグランドが使えないということで、ちょっと遠い五中のグランドでのラグビー練習。開始が8時半だったので、ご飯を食べさせ、ラグビーの練習着に着替えさせ、8時10分にうちを出た。零下の気温だった。
良く途中で、息子のラグビー仲間にあって、一緒に五中へ。8時20分頃に到着した。
10時に終わるということだったので、見学することにした。幸い、風がなく、日向にいるとそれほど寒くはなかった。
体を動かす練習が中心で練習試合もなく、10時過ぎに練習が終了した。帰り道、中央公園を通りかかると、消防の出初式をやっていた。「ちょっと待ってて」と言って見に行って戻ると、息子の姿がなく、一人で帰宅。妻は出かけていた。しばらくて、息子が帰ってきて、「なんで先にかえるの?」と言ってきた。「探したけど、見つからなかった」と言うと「ゆうぐであそんでいた」と。

「お腹空いた」と息子はお餅を焼いて食べた。すぐ後にお昼の用意。お昼ご飯を食べていると、息子が呼んだN君がやってきた。
1時過ぎに妻が帰ってきた。妻が息子と友だちのS君を映画『劇場版イナズマイレブン 最強軍団オーガ襲来』に連れて行くと言っていて、N君も一緒に行くかと誘うと最初は行かないと言っていたが、行くと。
2時前に妻が二人を映画に連れて行った。
テレビで、全国大学ラグビー帝京大早大」の試合を観戦。帝京が先制。その後、帝京が点を重ね、早稲田が5点差に詰め寄るが、帝京が勝った。
4時過ぎに走りに出た。風がなく、まだ気温はそれほど下がってなくて、1kmほど走ると汗が出てきた。前半は調子が出なかったが、後半ちょっとよくなり、1時間8分ほどで10km。
帰宅すると、息子たちが帰っていた。妻は買い物に行ったと言うことだった。妻が七草粥を作っておいて言っていたので、準備。お粥を作っていると、妻が帰ってきた。

息子たちはデュエルマスターズカードで遊んでいて、そろそろ帰るというときになって、N君が財布がないと。うちの中で見つからないので、妻が映画館に電話。財布の届けはないと。座席を探してくれるように伝えて、電話を切った。しばらくして、妻が電話すると財布が見つかったと。ほっとして、N君とS君が帰って行った。
夕飯を食べていると、A君がやってきて、一緒に夕飯。
息子たちは9時半過ぎに寝た。
NHKスペシャル「日本人はなぜ戦争へと向かったのか第1回“外交敗戦”孤立への道”」を見た後、10時過ぎからサッカーのアジア・カップ「日本対ヨルダン」戦を観戦。

昭和史 戦後篇 1945-1989 (平凡社ライブラリー)

昭和史 戦後篇 1945-1989 (平凡社ライブラリー)

昭和二十二年九月十九日、つまり外務省案ができた一週間後、天皇が自らの構想を、宮内府(新憲法施行により宮内省改め)御用掛でマッカーサーとの会談にも通訳として同行した寺崎英成さんを通してアメリカの連合軍に伝えた記録が残っているのです。
天皇は、アメリカが沖縄をはじめ琉球ほかの諸島を軍事占領し続けることを希望している。天皇の意見によると、その占領はアメリカの利益になるし日本を守ることにもなる。(中略)天皇がさらに思うに、アメリカによる沖縄(および要請があり次第ほかの諸島嶼)の軍事占領は、日本に主権を残存させたかたちで長期−二十五年から五十年ないしそれ以上−の貸与をするという擬制のうえになされるべきである」
つまり、日本本土はもってのほかで、沖縄諸島をこのまま軍事占領していくほうがいいのである。それも主権は日本にあるのをアメリカが長期間借りる−いささかおかしなかたちなんですが−ことをお互いに承認し合って沖縄の軍事占領を続けたらいかがですか、そう天皇の方から言ったことになる。そして結果的には、アメリカ軍は「なるほど、名案」とばかりにこのアドバイスに乗っかり、後にはグアム、沖縄、そして台湾を結ぶ弧状の線をアジア戦略の防衛戦にするのです。朝鮮半島に大部隊を置くとか余計なことをせずに、大きな弧を描くようにアジアの防衛戦をつくることをアメリカは目論んだのです。考えようによってはこれは、昭和天皇がものすごく戦略的にすぐれた頭をもっていたことになるのであって、片山首相以下、芦田外相ら政府の連中はいったい何を考えているんだ、という話になるんですね。