from上海to東京

子育ての日々の断片を書き綴る

ニートな部分

玄田有史さんの「ニートと希望のパラドクス」から。

そもそもニートは、本来は若者のうちごくわずかの割合の問題に過ぎないのです。それなのに、ニートへこれだけの関心が集まったのは、働いている人たちの多くが、自分のなかにあるニートな部分を感じ取っているからです。そのニート的な部分とは、人間関係の苦しさでもあり、そして未来に対する希望のなさです。
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私たちが最近行った20代から40代へのモニター調査の結果では、小学6年生の頃、約7割は将来なりたい希望の職業があったといいます。そのなかで、実際に希望の職業に就いたのは1割にも満たない。
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希望は求めれば求めるほど逃げていく。しかし希望を求めなければ、強い充実も得られない。それが、希望のパラドックスです。カミュはかつて「希望とは一般に信じられていることとは反対で、あきらめにも等しいものである。そして、生きることは、あきらめないことである」と言いました。「絶望は虚妄であるように、希望もまた同じだ」と言った魯迅もそうですが、希望にまつわる言説は、どこか矛盾に満ちて聞こえます。

みんながなりたいのは一流の人。一流の人になれる確率は昔から変わっていない。確率が低いからこそ、一流の人と言われるはずだから。若者たちに希望は叶えられるものとして捉えられていることが問題じゃないのか。一昔前までは、希望が叶えられないものとしてあったから、挫折を経験したとしても、他に喜びを見いだして、楽しく生きて来られたような気がする。