from上海to東京

子育ての日々の断片を書き綴る

すぐれた人間

期間限定の思想―「おじさん」的思考〈2〉』に、

いまの若い人は余裕がなくて、アグレッシブな人が多いでしょう。それは基本的に善良な私、というものがあって、それを最終的な自分の根拠にしているから。そこから出発してくるから、それを守るために、やわらかくて、やさしくて、美しい自分を守るためだったら、いくらでも針をだしていく。

とあった。そういう人が多い気がする。針をだしている人に針をだしちゃダメよと注意をすると、こちらに向かって針を投げてくる。こちらは針だしを非難している訳だから、針をだせずに逃げるのみ。気をつけないといけないのはこちらが針をだしていないつもりでも相手にとっては針をだしているように受け取られ、強烈に針が飛んでくることがある。こういうときは、どうすればいいのか。解決策なし。合気道のように、相手の力を使って投げばいいってか。かなり修行を積まないとできそうもないね。
内田さんは、別のところで、

「すぐれた人間をなみの人間から区別するのは、すぐれた人間は自分に多くを求めるのに対して、なみの人間は自分になにも求めず、自己のあり方にうぬぼれている点だ。(・・・・・・)一般に信じられているのとは逆に、基本的に奉仕の生活を生きる者は選ばれた人間であって、大衆ではない。(・・・・・)高貴さは、権利によってではなく、自己への要求と義務によって定義されるものである。高貴な身分は義務をともなう」
オルテガ的「貴族」にとっての「ノブレス・オブリージュ」とは、さしあたり「手続き、規範、礼節、非直接的方法、正義、理性」を遵守することである。それは言い換えれば、「共同生活への意思」を持つということ、自分と異質な他者と対話を維持できる能力を持つということ、「敵と、それどころか弱い敵と共存する決意を宣言する」ことである。つまり、オルテガのいう「選ばれたもの」とは、その語のもっとも正しい意味における「市民」(ラテン語のCiViS)のことなのである。

と。「すぐれた人間」になるのは大変だ。大変だから、大衆と区別して「すぐれた人間」といわれるだろけど。
養老孟司さんは、

私の大学の恩師は、かつて「人の心が分かる心を、教養という」と言いました。ホームレスの心が分かる、年寄りの気持ちが分かる、若い者の気持ちが分かる。個性を伸ばす、伸ばさないと言わなくても、教育はこの一言で十分だと思います。

と。養老がいうところの教養がある人が大人だということ。