from上海to東京

子育ての日々の断片を書き綴る

「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」を観に行った

4時過ぎに目が醒め、トイレ。息子は帰ってきていた。

6時半過ぎに起きた。

リンゴを食べて、朝ご飯を食べ、しばらくテレビの視聴。

息子は8時頃に起きてきて、9時前に出て行った。

10時過ぎにうちを出て、上野に向かった。

11時過ぎに上野駅に着いて、東京都美術館に向かった。国立西洋美術館では、「モネ 睡蓮のとき」をやっていて、チケットを買い求める列ができていた。

f:id:samso:20241011232212j:image

良く晴れていて、気持ち良い空が広がっていた。

f:id:samso:20241011232236j:image
f:id:samso:20241011232233j:image

東京都美術館に着くと、「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」のチケットを買い求める長めの列ができていた。

f:id:samso:20241011232314j:image

予約しておいたので、すぐに展示会場に入ることができた。音声ガイドを借りて、見学。中は思った以上に混んでいた。最初は、「若き南画家の活躍 東京時代」。8歳ときに描いた菊の絵があった。確かに8歳にしては上手すぎる。東京美術学校に入るまで南画家として身を立てていたようであるが、少し筆づかいが荒いように感じた。次は「千葉時代」。東京美術学校を2か月で辞め、27歳で木彫家の父を亡くし、30歳のときに親戚を頼って、千葉市に移り住んでからの絵。田園風景の絵はなかなか良かった。戦後に描いた絵はなかり上手くなっていたが、40代になっても日展院展で落選が続いたようだ。九州・四国・紀州を巡る旅に出て、南国の風物に魅せられ、画風が変わっていった。最後は、「己の道 奄美」。50歳になった一村は、奄美大島に移って取材をし、いったん千葉に戻ってきたが、決心して奄美大島に移住した。お金がなくなると、大島紬工場で染色工として働きながら、絵を描いた。亡くなる前の3年は工場を辞め、絵に専念したようだ。蘇鉄やアダンといったモチーフが決まってから、絵は素晴らしかった。

f:id:samso:20241011232334j:image
f:id:samso:20241011232338j:image

1時過ぎに観終わって、上野駅近くに戻り、不忍池方面に歩いて行って、中華料理店に入って、昼ご飯。

f:id:samso:20241011232402j:image

f:id:samso:20241011232427j:image

日本画材店に行って、また絵具と筆を買った。それから、不忍池の蓮を見てから、上野駅に戻った。

f:id:samso:20241011232505j:image

3時半頃に帰宅し、昼寝。

テレビを視聴していたら、ノーベル平和賞の発表があって、日本被団協が受賞したと。

石破首相はASEAN後の記者会見で、「長年核兵器の廃絶に向けて取り組んできた団体が受賞するのは、極めて意義深い」と言っていたが、『石破氏は米シンクタンクのハドソン研究所が27日にウェブサイトに掲載した寄稿で、米軍の対日防衛義務などを定めた日米安保条約の「非対称性」に触れ「改める機は熟した」との認識を示した。
米国の核を日本に持ち込ませる必要性にも触れた。かねて米国の核使用時の意思決定に日本も関与する「核共有」も唱えてきた』のである。

5時45分過ぎにシャワーを浴び、夕飯。

夕飯後もテレビを見ていたら、また寝てしまった。

10時過ぎに息子から電話がかかってきて、「うちに鍵ない?」と。鍵をなくしたよう。

11時半過ぎに鍵が見つからないまま息子が帰ってきた。