from上海to東京

子育ての日々の断片を書き綴る

他人のもたらす不快に耐えることが労働価値

内田樹の研究室「不快という貨幣」から。

私の仮説は「働かないことを労働にカウントする」習慣が気づかないうちに社会的な合意を獲得したというものである。
働かないことが労働?
どうして、そんなことが可能なのか。
このヒントをくれたのは諏訪哲二さんの『オレ様化する子どもたち』である。
この中で諏訪さんもまたたいへんに重要な指摘をしていた。
この本は去年出た本の中でもっとも重要な教育論の一つなのだが、メディアではほとんど話題にならなかった。先進的過ぎたのかも知れない。
諏訪さんが報告している中で印象深いのは「トイレで煙草を吸っているところをみつかった高校生が教師の目の前で煙草をもみ消しながら『吸ってねえよ』と主張する」事例と、「授業中に私語をしている生徒を注意すると『しゃべってねえよ』と主張する」事例であった。
これはどう解釈すべきなのだろう。
諏訪さんはこういう仮説を立てている。
彼らは彼らが受ける叱責や処罰が、自分たちがしたことと「釣り合わない」と考えている。
「彼および彼女は自分の行為の、自分が認定しているマイナス性と、教師側が下すことになっている処分とをまっとうな『等価交換』にしたいと『思っている』。(・・・)しかしここで『商取引』を開始する立場にはないし、対等な『等価交換』が成立するはずがない。そこで自己の考える公正さを確保するために、事実そのものを『なくす』か、できるだけ『小さくする』道を選んだ。これ以降、どこの学校でも、生徒の起こす『問題』の展開はこれと同じものになる(今もそうである)。」(諏訪哲二、『オレ様化する子どもたち』、中公新書ラクレ、2005年、83−4頁)
キーワードは「等価交換」である。
商品と対価が釣り合うこと。それが市場経済の原理なのである。
だが、この等価交換のやり方を彼らはどこで学んだのか?
もちろん家庭においてである。
だが、家庭内というのは通常の意味の市場ではない。
少なくとも家庭におけるサービスの交換は貨幣では精算されない(はずである)。
だから、子どもたちは家庭内で貨幣を使うことを通じて市場経済の原理を学習したわけではない。
貨幣を知るより前に、彼らは家庭内で「労働価値」をはかる貨幣として何が流通しているのかを学んだ。
現代の子どもがその人生の最初に学ぶ「労働価値」とは何か?
それは「他人のもたらす不快に耐えること」である。

どうかなあ。うちの子どももやったのにやってないと言う。先日、落書き帳で絵を描いておいて畳にクレヨンが付いたので「畳にクレヨン付けたらダメだよ」と注意すると、持っていたクレヨンでわざと線を引いた。「クレヨンで畳に描いちゃダメだと言ったでしょ」と言うと「やってないよ」と答えた。こういう口答えを許されて育てば、上の高校生のようになってしまうだろう。幼児期に性格のかなりの部分が作られるような気がする。子どもにしっかり態度や話し方を観察されていて、ダメな部分はすぐに真似られる。ダメだと言っても説得力がない。