「田中秀臣の『ノーガード経済論戦』」から。
補助金は撤廃され、郵貯の資産運用は国債を中心にして“市場原理”に親和的に行われているだけである。いいかえると特殊法人や政府などの公的部門への資金流入は、経済主体(家計、企業、政府、仲介機関など)が“市場原理”に基づいて選択した結果である。そのため郵貯・簡保などは単なる資金の流れの仲介にすぎず、これを民営化すること事態が劇的に資金の流れを変更することはありえない。
おそらく郵貯部門が民営化されても従来の国債・地方債中心の運用を劇的に改善することはないであろう。もし政府が郵貯・簡保による国債・地方債の運用を抑えたいのであれば民営化ではなく、これらは現時点で政府部門なのだから直接その購入を制限することが可能であろう。
しかし政府は民営化本来の目的(当該組織の非効率性の改善)を追求するというよりも、民営化主体の資産選択行動を政府の意図どおりに、市場化のなかで実効させようという錯乱した方式で行うつもりのようである。民営化はするが、政府の都合どおりに資産運用を行ってほしいというのは、この政権の奇怪な発想を端的に表しているだろう。
田中秀臣さんのブログ「Economics Lovers Live/top」から。
世間受けでは、「小さい政府」とは今回の郵政民営化のように、緊縮財政、民営化、市場の自由化(規制緩和)で経済全体にしめる公的部門の支出をできるだけ縮減することにある。公的支出が大きいと経済成長率が低いという実証がまことしやかにこの「小さな政府」論の弁護に援用されている。日本の現在の経済思想の一大トレンドであり、これに抵抗するのは相当な覚悟が必要である。なぜなら対する「大きな政府」は、その政府部門の大きさの正当性などはあまり考察されずに、単に「役人天国」や天下り・談合の淵源として指弾されているからだ。経済学には「効率と平等のトレードオフ」という基本的な発想があって、効率(つまりは経済成長)を犠牲にしないでは平等を実現できない(その逆もまた真)という関係があったはずである。さきほどの「小さな政府」論のバックグランドである経済成長率と政府支出の規模の負の相関というのは、この「効率と平等のトレードオフ」を反映しているものである。つまり効率性が犠牲になる一方で、平等のメリットを社会は享受しているはずだ。もちろんこのような「大きな政府」論のメリットを声だかに主張する人はいない。先の郵政民営化法案の反対派の主張の多くは、利益団体の代弁や局所的な利害の話に終始してしまい、国民経済全体から判断している人は少数である印象が強い。
ブログ「世に倦む日日」から。
人間の歴史とは、結局のところ、こうしてパブリックを拡大して、一部ではなく全部が社会の福利にありつけるように発展してきた歴史ではなかったのか。個体が共同体を作って経済的な権利を獲得し、それを守り拡大してきた歴史ではなかったのか。奴隷が市民になってきた歴史ではなかったのか。ヘーゲルは歴史の発展とは自由の精神の拡大だと言っている。自由の精神の拡大の歴史とは、裏返して言えば、人民が隷属から解放されて自由を手にしてきた歴史という意味であり、それはまた、社会を単に私的所有の分割と集合に止めるのではなく、まさにパブリック(市民社会)を拡大してきた歴史である。パブリック(公共社会)の発展と拡大こそが人類史の流れであり、具体的に言えば、社会保障が制度として手厚く公平に配慮される社会こそが、人類が目指してきた理想の社会なのだ。