from上海to東京

子育ての日々の断片を書き綴る

お迎えもパパがいい

昨日寝るのが遅かったので、起きては来なかったが、起きる際にぐずりはしなかった。ご飯を食べながら今日は送り迎えともパパにしてもらいたいと子どもが言ってきた。昨日の夜、保育園から帰るときに他の園児が自動車や自転車に乗せられ帰って行き、取り残されたようで、それが嫌だったから、お迎えもパパがいいと言っているんじゃないかと妻が言った。
最近は時間がないので夏用のスーツで自転車に跨り子どもを保育園に送っているが、風を切って走るとかなり寒い。そろそろ対策を考えないといけない。
今日も昼休みに会社の近所を散歩。散歩日和だった。近くの保育園の園児らしい子どもたちが先生に連れられて、神田川沿いを歩いていた。やはりうちの子どもと同じぐらいの子どもを見かけると気になって、しばらく眺めていた。
5時頃、残業したいから子どもを迎えに行ってほしいと会社に妻から電話があった。しかし、ちょっとした失敗をやらしてしまい、作業が遅れていたため、今日は無理と断った。思っていたよりは早く片づいたが、40分ほどオーバーして帰宅。
帰ってきてドアを開けると、うちのじゃない、靴が並んでいた。インド人親子と、子どもと同じ保育園に通っている子どもとその母親がいた。女性たちは食事の用意をし、子どもたちはオモチャで遊んでいた。落ち着く場所もなくウロウロ。食事をみんなで一緒にしたあと、妻と子どもはインド人宅にちょっと行ってくると言って、帰る他の家族と一緒に出かけた。
足の踏み場もなく散らかったオモチャを片づけ、図書館から借りてきた「知の教科書 デリダ (講談社選書メチエ)」を読んだ。何となくしか解らないけど、31日の杉浦法相の発言が頭の中にあったので、次の箇所が気になった。

法を創設する暴力は、その起源においてすでに自己の反復の可能性を含んでいなければならない。起源は、反復することによって、みずからを変質させ、起源としての価値をにない、みずからを維持する。他方、法を維持する暴力のほうも、つねにみずからを繰り返し基礎付け直す。創設の暴力と維持の暴力は、差延的に感染(=混淆)しあっている、とデリダは言う。法は、その起源においても、維持する作用においても暴力と手を切ることはできないのだ。
その差延的な感染は、法の純粋さの核心に「なにか腐ったもの」があることを意味するとベンヤミンは言う。死刑や警察がそれである。とりわけ近代国家の警察は、亡霊的な混合体である。それは処分権と命令権を合わせ持ち、それゆえますます暴力的なものとして偏在する。さらにそれは死刑を行使するものでもある。