from上海to東京

子育ての日々の断片を書き綴る

神田川上水沿いの桜は満開だった

samso2012-04-06

5時15分過ぎに起床。
外は曇り空で、ちょっと気温が低かった。
朝ごはんを食べ、息子を起こしに行った。「今日から新学期だよ。早く起きて」。
外は思ったよりは気温が低くなく、コートはいらなかったと。周りを見てもコートを着ている人は少なかった。
神田川上水沿いの桜は満開だった。

10時頃から日が出てきて、最高気温は16℃だった。
6時前に会社を出たときは、寒くてコートが必要だった。
神田川上水沿いに行くと、寒さの中、花見宴会をやっているグループがいくつか。

7時前に帰宅。食卓には、BB弾の鉄砲の箱が。
夕飯を準備していると、息子が帰ってきた。今日は、教室に入らず、校庭でクラス分けを聞いて、帰ってきたようだった。担任の先生は変わって、他の学校から来た女性だと。「BB弾の鉄砲の箱は何?」「買った」「お金は?」「こづかいをつかった」「友だち連れてきた?」「来た」。
夕飯を食べながら、「チャレンジやった?」と聞くと「これから」。
チャレンジの理科の問題をやって持ってきたが、間違いがあり、指摘すると、拗ねた。
一緒にお風呂に入って、先に息子が出ると、吐く声が聞こえた。「気持ち悪くなって、水道ではいた」。
もう9時半過ぎだったので、寝に行かせた。

鷲田清一「タコツボを機能させるには」〜

震災復興対応が大幅に遅れるなかで、増税議論がなされ、そのさなか、かつて凍結されていたはずの公共事業がどんどん復活している。将来世代にツケを回しつづけてきた施策への反省、「経済成長神話」からの脱却、暮らしのダウンサイジングの模索といった一時期ひとびとが覚悟を決めかけた課題はどこへやら、省庁の旧来の予算取りがまた復活している。若者の就労枠を狭める「新規採用の抑制」は図られても、巨大事業の復活には歯止めが効かない。だれか全体を見渡す人はいないのか?新聞記事を見てそんな溜め息をつくひとは少なくないだろう。
極端なまでの職域の機能別分化、学問の細分化。それが、危機対応を鈍くしている、あるいはけっきょくだれも責任をとらない「無責任」の構造を崩せないでいる…。しばしそんなふうにいわれる。いわゆるタコツボ化である。
だから政府や自治体では、省庁の個別利害を超えて横串をさすような組織がつくられたり、広く考えを聴こうということで、パブリックコメントを求めたり、公聴会タウンミーティングを開いラリする。高等教育・研究機関のほうでも、ながらく学祭研究や文理融合の必要性が声高く叫ばれてきた。
この議論、一見まっとうのようにみえる。だが、パブコメ公聴会はただ形を整えるだけに終わってこなかったか。文理融合が目をみはるような成果をあげたことがあったか。
社会システムが複雑になるにつれて機能分化が進行し、限定された業務を正確かつ能率的に遂行するために、組織が専門化し、さらにそれがタコツボ化するのはさけられない。
家事や介護労働といったいわゆる他者のケアという仕事は、社会的にあまり高く評価されてきていない。機能分化という視点からすれば、これらのじつにまとまりがなく、中途半端。どの作業もすぐに横やりが入り、手を止めざるをえない。そしていつも「待ったなし」。あれやこれやの勝手な言いぐさに囲まれてながら、それでも他を案じる、全体的に目配りをする、そんな気の利きかた、そう「気ばたらき」が求められる。
「ながら」型の業務のなかで強いられるこうした「気ばたらき」、それがなければ、行政であれ研究であれ、そもそも社会的な業務は首尾よくいくはずがない。そんなあたりまえのことを、今日、専門職と称するひとたちは忘れているのではないか。
だから教育の改革を、と問題を他に、あるいは先に投げてはいけない。それよりおのれの足元で本務でもないのにだれかがやってくれている事、たとえば家事、町内の行事の準備などに加わってみることが、存外いちばんの勉強になるのでは。インターシップが必要なのは、学生たちではなく専門家集団である。