from上海to東京

子育ての日々の断片を書き綴る

対話の能力

世界(2007年5月)「改憲論と御霊信仰」(丸谷才一長谷部恭男対談)から。

丸谷 意見が一つでないと気が済まないという傾向、あれはどうも日本人の議会制度に対する、代議制に対する能力の低さというようなものと関係があるのかもしれませんね。対話の能力が非常に下手なんですね。
これはいつか朝日新聞に書いたのですが、西洋の新聞の読者投書欄と日本の新聞の読者投書欄とは性格がどう違うか。西洋の新聞の投書欄は、先日の何々ページの載ったこの記事はものの考え方がこういうふうに間違っているし、その前提としての事件の把握の仕方がこういうふうに間違っている、これはこう考えるべきであって、あなたのところの記事はこう間違っている、といったものが載るわけですよ。それに対して、今度はそれを書いた記者やコラムニストが答える。書評に対する反駁なんかも、酷評された著者が、この間は書評をしてもらってありがとう、しかしながら私の本に対する理解が全くできていないというような、コテンパンなことを言う。それに対してレビュアーが出てきて、また答えて、もっとひどいことを言って反論するというような、そういう仕組みになっているわけです。
ところが日本の読者投稿欄というものは、この間花見に行ったら花がこんなふうに咲いていて、とてもよかった、帰りに団子を買って食べたら細君がこういうことを言ったとか、あるいは車椅子を押して母親を連れて町へ行ったら、街の人が親切なことをしてくれて本当に嬉しかったとか、そういうものであって、新聞それ自体の載った記事に対する対話という形はとらない。俳句的、短歌的抒情というか、そういう形式が非常に強い。ぼくは、新聞の読者投書欄がああいう歌俳欄に近い性格であるということは、日本人が代議制度が苦手なのと対応していると思うんですよ。
長谷部 先ほど話に出ましたミラン・クンデラは、叙情詩というのは世界観が一元的な社会に向いている、ですからまさに共産主義国家で盛んな文学は叙情詩であった、と。