from上海to東京

子育ての日々の断片を書き綴る

妻と子どもが横浜から帰ってきた

samso2006-06-18

今日も梅雨らしい天気。朝方は小雨だったが、いつの間にか本降り。
サンデーモーニングを見ていたら、W杯サッカー熱狂に代表される日本の状態を「象徴的貧困」という言葉で説明しようとしていた。「Internet Zone::Movable TypeでBlog生活」によれば、朝日新聞で『「象徴的貧困」とは、過剰な情報やイメージを消化しきれない人間が、貧しい判断力や想像力しか手にできなくなった状態を指すという。
 フランスの哲学者ベルナール・スティグレールが使い始めた言葉で、「メディアがつくりだす気分に人々が動かされがちな日本の現実にこそふさわしい」と石田氏(東京大教授)が訳語を考えた』と紹介されてようだ。ル・モンド・ディプロマティーク日本語電子版 2004年6月号「欲望、文化産業、個人:ベルナール・スティグレール」には、

ドゥルーズが慧眼にも見抜いたように、「マーケティング」とは「社会管理のための道具」であり、「脱産業」社会と称する社会の実態は、ハイパー産業社会である。個人主義が優位に立つというよりはむしろ、個は群れとなって行動し、個体化の機会がくまなくかき消されていく時代である。
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今や、消費者の行動が、欲望のフォーマット化と改竄をとおして、平準化していく番だ。現代の人間は、生きる力、様々な生を生きる可能性をうしなう。規格という考え方が代わりに現れる。だが、規格とは、詩人マラルメが雑誌『最新流行』で論じたように、流行へのたえざる目配せにほかならない。
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重要なのは、やはり個人消費という幻想が、欲求不満や疑惑、破壊本能をかき立てていることだ。テレビの前でひとり時間を過ごしていると、自分が個人行動を取っているとつい思えてくる。だが実際には、その瞬間に、数十万人の視聴者が同じ番組を眺めている。
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マーケティング技術は、1940年代にアメリカの産業界で実施段階に入り、以後ますます高度化を遂げた。その過程で生まれたのは、象徴的貧困と、リビドー的・情動的貧困である。

と。マスコミによって作られた流行という名のカタログから選択しているだけの消費生活。サーチエンジンポータルサイトで検索できるコントロールされた情報だけが選択範囲。それで満足している精神的貧困が深まっていく。
妻と子どもは、5時過ぎに帰ってきた。雨が止んでいたので、バス停まで迎えに行って、外食。SCOOTERをもらってきて、うちに帰る途中でやりたいというので、少し遊ばせた。うちに戻ってきてもSCOOTERに乗ったままで、お隣に行ってしまった。8時過ぎまで帰ってこなかった。
お風呂に入ったあと、パパの絵を描くと言って描き出した。
テレビを点けたら、ネクスト世界の人気番組 「ナニー救急隊」というのをやっていた。子ども4人をもてあましている家庭に乳母がやってきて、コントロール不能だった子どもたちをコントロールし、無法地帯だった家庭に秩序をもたらす。散らかし放題の子どもが自分で片づけるようになっていく。子どもも真剣に見ていた。