from上海to東京

子育ての日々の断片を書き綴る

武田徹さんの「オンライン日記」に、

中国呉儀副首相が小泉首相との会談をキャンセルして帰国してしまったことについて『めざましTV』では国際教養大学の中島嶺雄に電話取材していて「首相級の会談をキャンセルするのは国際的問題、国際社会は約束を守れない中国を糾弾すべき」というコメントを取っている。しかし一方では靖国は日本の問題であって、ヨソの国から何か言われる必要はないのだそうだ。かたや国際社会のデファクトスタンダード違反に目くじらたて、かたや国内問題としての隔離の必然性を主張する非対称性というのは(オウム返しされて耳にたこができるほど聞かされた論理でもう改めて書くのもうんざりではあるのだが・・・・)どうしたものなんだろう。

と。私を含めて、ほとんどの人は外から自らをみることができないということ。また、そういう視点でみようともしない。

マス=大衆社会に根ざしているのがマスコミュニケーションのレゾンデートルなのであれば、それこそ吉本の「大衆の原像」論ではないけれど、個人の死を悼む大衆社会の素朴な心情の輪郭をイデオロギーに回収させずに守りつつ、その上に情報空間を築いてゆくことにもっとこだわりをしめしてもいいのではないか。中国の反日行動に対してカウンターアタックしたほうが受けがいいだろうと(大衆の原像が視聴率の数字に必ずしも反映しない事情に耐えることなく)視聴率主義に安っぽく妥協して、中嶋の勇ましいコメントに頼ったりしないで、さ。もちろんそんなことをしているうちにすっかり国家主義的な情報空間が出来てしまってマスコミの方向性と大衆の原像(と視聴率)が一致してすべてまるくおさまると言うこともあるんだろうが、それは結果論であって、イデオロギーに回収されたマス社会作りをあらかじめ目指すのがマスコミのすべきことでは少なくともないだろう。

もう「マスコミの方向性と大衆の原像が一致して」きているように感じるけどね。これで「すべてまるくおさまる」というのか。

夢を見た。
小泉さんがブッシュさんとキャッチボールするときは、ブッシュさんがとんでもないところにボールを投げても、必死に拾いにいって、ちゃんと投げてよとも言い返さず、いつもニコニコ。しばらくキャッチボールをしていなかった小泉さん、ちょっと緊張して胡錦涛さんにキャッチボールしようといった。やりましょと胡錦涛さんが答えて、二人はキャッチボールを始めた。胡錦涛さんがボールを投げたが、小泉さんが余所見をしていて、ボールがどこかにいってしまった。胡錦涛さんがボールを投げたことに気がつかなった小泉さんは、胡錦涛さんがどうしてボールを投げてこないのかと見物人達に不満を漏らした。胡錦涛さんはボールが返ってこないので、ムッとして帰ってしまった。そこにブッシュさんが現れ、小泉さんになにやらキャッチボールのアドバイスを始めた・・・・