from上海to東京

子育ての日々の断片を書き綴る

一歩もうちを出なかった

7時過ぎに起床。

消費期限切れの食べ物を選んで、一人で朝ごはん。

朝方は涼しかったが、徐々に気温が上がってきて、すぐに眠たくなった。

妻は健康診断に行った。

息子は10時過ぎに起きて来て、11時頃に塾に行った。

妻が昼過ぎに電話してきて、これから吉祥寺駅前に行くけど、電話が通じないし、LINEが使えなくて息子と連絡が取れないと言ってきた。仕方なく息子に電話をしたり、メッセージを送信。息子は塾にいるから、電話できないと伝えてきた。しばらして、息子が妻と連絡が取れたと言ってきた。

昼ごはんは、まだ残っていた材料で冷やし中華を作って食べた。

4時過ぎに妻が帰ってきて、主に息子の部屋の掃除を始めた。

夕飯も冷蔵庫に残っているもので済ませた。

息子が8時過ぎに帰ってきて、妻が作った青椒肉絲を食べた。

9時頃に二人は買い物に行くと言って、出て行って、30分ぐらいで帰ってきた。

ごろごろしながら、「経済学の宇宙」を読み終えた。

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この本では個人的な研究対象とその成果を述べてはいるけれど、この内容自体が経済学史そのもの。経済学の諸説に対する分析はほとんど納得できる。

「日本型の会社システムとは、産業資本主義、特に後期産業資本主義に適応した会社システムであった。後期産業資本主義とは、十九世紀の後半から二十世紀にかけての重化学工業化以降の産業資本主義のこと。大規模な機械制工場や大規模な流通ネットワークを必要とするとともに、その機械設備やネットワークを効率的に運営するための専門的なノウハウや高度の熟練も必要とする産業資本主義。

戦後日本の人本主義的、労働者管理企業的、共同体的な会社システムは、この後期産業資本主義にあまりにも適応した会社システムを作り上げてしまっていた。それは確かに個々の従業員にノウハウや熟練の習得を促す仕組みを備えている。だが、そのノウハウも熟練も、基本的には、機械設備や流通ネットワークを効率に運営するためのノウハウや熟練でしかない。

もちろん、それらが全く意味を失うなどということはない。特に、技術や市場が少しでも成熟してくると、まさにこのようなノウハウや熟練が大きな力を発揮していくことになるはず。だが、そうはいっても、それはやはり、ポスト産業資本主義的な企業にとって最も重要な差異性を作り出していうことのできる知識や能力とは、必ずしも一致してない。

ポスト産業資本主義における会社の命運は、もはや機械制工場の脇役としての能力や知識の育成と発展ではない。会社の中で、従業員や技術者や経営者がみずから率先して差異性を生み出し続けていくことのできるような人的組織―そういう組織をいかに育成し発展させるかにかかっている」

このような分析は正しいように思うが、通説には自己矛盾がある、完璧な理論的誤謬だと証明してみせても注目を浴びない研究テーマが多い。経歴はすごいのに学者として脚光を浴びる研究成果を発表できなかったから、自ら「没落」というのはどうか。「学界の中で活躍する場を失ったことは、逆に、自分にとって重要だと思う研究テーマに取り組む自由、そして何よりも時間を与えてくれた」とおっしゃっておられるが、研究成果を見れば、本当はもっと評価されてもいいんだけどなと思っているでしょう。この人は没後世界からどう評価されるんだろうか?