from上海to東京

子育ての日々の断片を書き綴る

「古代アンデス文明展」を見に行った

6時に目が醒めたが、今日も休んだので、起きたのは7時前。

とり野菜みそ鍋を温め、朝ごはん。

7時15分頃に息子に声がけ。起きなかった。7時半頃にもう一度声をかけると、起きてシャワーを浴びに行った。

7時45分頃にご飯を食べに来た。学校に行ったのは、8時10分頃。

12時頃に昼ごはんを食べ、12時半頃にうちを出て、郵便局にお年玉年賀はがきの3等の切手シートを取りに行った後、年金事務所に行った。

20分ほど待って、相談窓口に行って話を聞いた。来月からもらえるのかと思っていたら、後払いで4月からしかもらえないとわかった。

事務所を出て、上野に行った。上野公園に着いて、国立科学博物館でやっている「古代アンデス文明展」を見ることにした。あまり期待していなかったが、展示物を見ていて、飽きなかった。

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文明が滅びるって、どういうこと?何もないところから忽然と新たな文明が生まれるわけじゃない。インカ文明はそれ以前の文明を受け継いだものだけど、以前のものとは違う。アンデス文明が栄えた地域は肥沃な土地ではなかった。グレート・ジャーニーで南アメリカ南端に達して、もう移動先を失った人たちが仕方なく人口を増加させたってことなんか?

古代アンデス文明展 展示内容

16世紀以前、朝鮮料理は辛くなかったしイタリア料理にトマトは使われなかった。トマト、トウガラシ、ジャガイモ、カボチャ、インゲンマメ、トウモロコシといった作物は、アンデス中南米の農民たちが、古代以来、野草から選抜して大きな実がつくように育種したものなのだ。特にジャガイモは荒れた土地、寒冷な土地でも容易に育つため、ドイツをはじめ北ヨーロッパでは準主食のような扱いになった。19世紀のアイルランドのジャガイモ飢饉では、生活が立ち行かなくなった人々がアメリカ大陸に大挙移民した。歴史の皮肉といえるだろう。

アンデス文明は大きく山と海の文化に分かれる。海岸地帯の文化は神殿も日干しレンガ(アドベレンガ)で作るが、山の文化では石造りの巨大な建造物が目立つ。石は建築の素材としてだけではなく、神々の宿るワカ(神聖なもの)として崇拝もされ、インカでは「かみそり1枚」も通さない石造建築技術が発達した。本展覧会ではチャビン、ティワナク、ワリなどインカ以前の山の文化を紹介して「石の文明」の本質をさぐる。

長い間、地上絵が描かれた目的は解けない謎とされてきた。近年になって、地上絵の上にこの地では貴重なものとされる貝殻など、水に関する捧げものをともなう儀式の跡が発見された。これによって「地上絵=水の儀礼の祭祀場」説が有望な仮説となった。サル、クモ、ハチドリなど動物の地上絵は一筆書きで描かれており、水の儀礼の際に、この一筆書きの線を道に見立ててその上を歩いたのかもしれない。ナスカ文化が繁栄したペルー南海岸は降水が非常に少なく、過度に乾燥した環境である。水を得ることは人々にとって死活問題であっただろう。

車輪を用いなかったアンデス文明では、運搬用の車輪だけではなく、陶芸で使う「ろくろ」のような回転する仕組みも使われなかった。ろくろを使う旧大陸では、陶磁器の形状はシンメトリーが主流になったが、アンデスでは手びねりや型を使ったため、動物や栽培植物、この世のものではない怪物や精霊など、まるで彫刻のような独創的な象形壺がつくりだされた。リアルな人物の顔の壺などは一種のポートレイトとして土器が使用された例なのかもしれない。

紀元後650~1000年頃に繁栄したワリ文化は、インカ帝国の特徴とされるもののいくつかを、すでに発展させていた。アンデネスと呼ばれる巨大な段々畑やカパックニャン(「インカ道」)と呼ばれる道路網の一部はすでにワリの時代に使われていたらしい。他民族を武力で支配し広大な土地を統治した手法もインカ帝国のモデルになったのだろう。

アンデスには、スペイン植民地時代になるまで貨幣や市場がなかった。アンデスの人々は市場がない社会で必要な物を得るために工夫を凝らしていた。彼らはアンデス山脈の様々な高さの飛び地に人を送り込み、リャマの隊列を組んで飛び地から飛び地へ移動したのだろう。その高度と環境に応じた作物を作り、大規模な自給自足経済を営んだのもその一例だ。

インカを征服したスペイン人を困惑させたことのひとつは、高度に文明化されたインカに文字がないことだった。インカの記録技術で最も洗練されているのは、キープという、ひもに結び目をつくる方法だ。色、テクスチャー、素材など異なる紐に、さまざまな種類の結び目を作ることで、キープは単純な数量だけでない情報も記録できた。インカ王室の書記官はキープの記録と読み取りをマスターするため、クスコの学校で3年間特別な訓練を受けなければならなかった。この専門家たちは、キープを「読んで」、インカ王室の歴史をスペイン人に語って聞かせたというが、現在でもその完全な解読はできておらず、謎を残したままである。

アンデスの人々は「世界」をどのようにとらえていたか? アンデスの人々は、死とは何か、世界はどのような仕組みで、なぜ我々はここに生きているのかという、世界の成り立ちについてどのように考えていたのだろう。多彩な芸術作品を残したモチェ文化の土器を見ると、彼らは「人間」「自然」「死者」「神々」という4つの世界を認識していたようだ。とくにモチェの人々は死者との交流が密接であったようで、骸骨と生身の女性が交わっている土器など、死生観が垣間見える多数の土器が発見されている。

砂漠の広がるアンデスの海岸地帯では、エジプトよりも早く7千年前にはすでに意図的に加工したミイラがつくられていた。その後、この風習は広くアンデス社会に根付くことになったが、様々に加工されてミイラとなった人々は、ある文化ではコミュニティのメンバーとして扱われ、また別の文化では祖先崇拝の対象となっていた。加工の技法にもバリエーションがあり、ミイラを作るという伝統に様々な要素が加わって発展していったことがわかっている。

「古代アンデス文明展」を見た後、「南方熊楠」の企画展を見に行った。興味あることに熱中して人生を過ごした人だったよう。熊楠が反対した神社合祀が廃止された神社の森林資源を売却して日露戦争の戦費捻出するためだったとは知らなかった。

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5時頃に博物館を出て、上野駅内のコーヒーショップで休憩してから、6時前に帰宅。息子はネットゲームをやっていた。

かやくご飯の炊飯をセット。7時頃から、手羽元の炒め、餃子を焼いて、7時45分頃から夕飯。

夕飯後、探検バクモンを見ていたら、ヒカキンなどのユーチューバーが出てきて、息子も一緒に見た。

9時頃から息子はネットゲーム。

10時半頃に部屋に消えた。

皆既月食を見にベランダに出たが、曇っていてよく見えなかった。