from上海to東京

子育ての日々の断片を書き綴る

国立新美術館『ルーヴル美術館展』を見に行った

samso2015-03-15

7時に起床。
息子が起きて来ないので、一人で朝ごはん。
9時過ぎに息子を起こすが、「まだ眠い」と言ってなかなか起きず。
しばらくして起きて来て、「約束があったのに忘れてた」。「何の約束?」と聞くと、「サッカーを一緒にやることになっていた」。「何時から?」「10時」「まだ間に合うじゃん」。慌てることなく、テレビを見ながら朝ごはんを食べた。
10時前にうちを出ようとすると、息子が玄関のドアの鍵をかけようとするので、「行かないの?」と聞くと「あっ」。
渋谷に行って、鎌仲ひとみ監督の『小さい声のカノン』を観るために、シアター・イメージフォーラムに到着。まだ時間があったので、近くのスターバックスでコーヒー。11時過ぎに劇場に入ったが、40人ぐらいの人たちがいるぐらいだった。
被ばくはなかったことにしたい政府に抵抗する少数派の人たちの話。
高畑勲さんのメッセージ

被曝線量がどのくらいでどの程度の健康被害が出るのか、個人差もあり、確実なことは誰にも言えない。しかし、原発事故後、国が許容基準を大幅にゆるめたことはまぎれもない事実である。これを理不尽と考え、心から心配し、放射能の影響から子どもを守るために、ほとんど補償も援助もないまま被曝地から避難する母親たちがいる。被曝地に留まって自主的に除染を続けつつ、食物くらい被曝していない地域のものを子どもに与えたい、また、被曝していない地域で子どもを一時的にでものびのびと「保養」させたい、――そう考え、行動する母親たちがいる。そしてそれを支援する人々がいる。遠隔地から野菜を届ける人々。保養する子どもたちを自分たちの良い環境に受け入れる人々。ベラルーシで着実な成果を上げている「保養」は、日本でも子どもたちの被曝量を確実に引き下げるのだ。
この映画にはそういう選択をした人々が描かれる。ベラルーシに学んで、でもこちらはやむをえず自主的に、行動を起こした母親たち。しかし、収入をもたらす夫、子どもの父親である夫との暮らしはどうなるのか。賛成や協力が得られるのか、私は心配になる。また、低線量に不安をつのらせるより、むしろ忘れた方がかえって前向きに生きられるのではないかと考える人の気持ちもわかる。いまや福島では、行政による除染後の被曝地を離れようとする人々や、その地の食べ物を食べたがらず、風評被害をみずから生みかねない人々を、“非国民”扱いする空気さえあると聞く。
けれども、なぜベラルーシでは国ぐるみで出来ていることが日本では出来ないのか、国や自治体は人々の“愛郷心”につけ込んで、無策を正当化しようとしているのではないか。私はやはりそこにこそ最大の問題があると感じ、映画の中の、勇気を持って立ち上がり、多くの人とは別の、希望の道をみずから切り開こうとしているごく普通のお母さんたちのけなげな姿に、心からエールを送らずにはいられなかった。頑張れ!

映画館を出て、天気が良くなっていたので、お昼を食べてから、国立新美術館ルーヴル美術館展』を見に行くことにした。
「日常を描く―風俗画にみるヨーロッパ絵画の真髄」ということだったが、宗教画や風景画や肖像画ではない風俗画と思うような作品は少なく感じた。そもそも目玉のフェルメールの「天文学者」は風俗画には見えない。風俗画らしく見えたのは、ホントホルスト「抜歯屋」、ムリーリョ「物乞いの少年(蚤をとる少年)」、ドロリング 「台所の情景」、マセイス「両替商とその妻」、シャルダン「猿の画家」など。
ジャン=バティスト・グルーズ「割れた水瓶」は、意味深な絵だった。割れた水瓶を持ち、片側のおっぱいが見え、両手で下腹部を押さえて、虚ろな目の少女。「白夜行」を思わせる。
ミレー、コロー、トロワイヨンなどの作品は、山梨美術館でよく見ていたので、懐かしく感じた。
結構混んでいて、フェルメールの「天文学者」は柵で規制して、近くで見ようとすると立ち止まって見させてもらえなかった。
ミッドタウンでコーヒーを飲んでから吉祥寺駅まで帰ってきて、買い物し、帰宅。入れ違いに息子が「行ってくる」と言って、出て行った。
夕飯の支度をしつつ掃除をしていると、息子が帰ってきた。息子の部屋を片付けはしたが、机の上が散らかっていたので、片付けるように言った。ちょっとして見に行くと、トイレにいた。
机の片付けをやらせてから、夕飯。夕飯を食べながらテレビを見、食べ終わると、テレビを見ながら、妻とスカイプ。
「勉強は?」と聞くと、「後でやる」。結局ほとんどしないで、11時前に寝に行った。