from上海to東京

子育ての日々の断片を書き綴る

格差社会

武田徹さんの「オンライン日記」に、

日本社会の階級閉鎖性の話を学生にするのは気を遣う。たとえば40歳時にホワイトカラー管理職であった父親の息子は自分も40歳にホワイトカラー管理職になり、同じく40歳時にブルーカラー被雇用者であった父親の息子は同じく40歳時にブルカラー被雇用者になる率が高まっているという『不平等社会日本』の分析。一般論はそうでも個々人のケースは必ずしも当てはまらないと敷衍したところで、こういう話はやはり重い。

とあり、産経新聞には「所得格差 若年ほど拡大傾向 フリーター増加が要因」という記事があり、『希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』という本が売れているようだ。

職業・家庭・教育、そのすべてが不安定化しているリスク社会日本。「勝ち組」と「負け組」の格差が、いやおうなく拡大するなかで、「努力は報われない」と感じた人々から「希望」が消滅していく。将来に希望がもてる人と、将来に絶望している人の分裂、これが「希望格差社会」である。

そういえば、保育園段階ではまだないようだけど、小学生の高学年ぐらいになると「希望が消滅」していくってことは、もう何十年も前からあったように思う。中卒が金卵と呼ばれていた時代(40年ほど前のこと)には希望があった。大学進学率が急に高くなった時代から「希望が消滅」し始めたと思われるが、バブル崩壊までは容易に就職できたし、大して能力がなくてもそれなりの給料がもらえ、ちゃんと生活ができた。サラリーマンには終身雇用制度があったからだ。バブル崩壊後、就職率が一気に低下し、終身雇用制度も崩れた。会社も「勝ち組」「負け組」に別れ、不況を克服して業績を今まで以上に伸ばす会社がいる一方、倒産または業績が低迷したままの会社が多数ある格差社会になった。実力主義になり、業績のいい会社の中にいても、社内でも「勝ち組」と「負け組」に別れるということがあるようだ。経済至上主義の世の中で希望が持てる人だけが「勝ち組」になれる。ブログ「猿虎日記」によると、『希望格差社会――「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』という本には、

スローライフやローカルライフなど、あくせく働くことを是とせず、マイペースで働いて、時間的、精神的ゆとりを得るという〕ライフスタイルを実践できる人というのは、他人(この他人には、家族や親戚、友人も入る)の目を気にしないでいられる、よほどの「自信家」に限られる。そのような自信をつけるためには、相当のインテリジェンスとお金が必要である。結局、この方策も、そのままでは、勝ち組の「もう一つのライフスタイル」になってしまう公算が大きいのだ。

と書かれているようだ。「負け組」にはライフスタイルを変えてみようとする発想もないし、またその余裕もないということか。インテリジェンスはあるがお金はない(または必要ない)という人達はそれなりにいるように思うけど、その人達は「勝ち組」に入ると、著者は考えているのかな。

ブログ「吟遊旅人のつれづれ」には、内田樹/名越康文著「14歳の子を持つ親たちへ (新潮新書)」(新潮新書)という本が紹介されていて、『「勝ち組」「負け組」と世間では言うが、内田さんにいわせればそれは「利口組」と「バカ組」の差なんだって』とか、「名越さんは大阪でクリニックを開いていて、そこには思春期の子どもをもつ親たちがたくさん相談にやってくる。名越さんは、病気は子どものほうじゃなくて親だ、と言う」とか書いてあるという。精神科医に相談にやってくるような「負け組」の親、つまりバカ親の子供は、必然的に「負け組」になるということなんですかね。私のようなバカ親を持った子供は可哀想と嘆くしかないのか?
中国はすでに日本以上の格差社会だけど、上海で暮らしているときには、中国の人達には日本人よりはまだ希望があるようにみえた。高度成長の真っ直中で、まだ幻想が抱けるだけってことかも知れないけど。