from上海to東京

子育ての日々の断片を書き綴る

ブログ「小林恭子の英国メディア・ウオッチ」に、5月10日号のフィナンシャル・タイムズに載っていた、ドイツの日刊紙Der Tagesspiegel紙の論説委員クレメンツ・ウエルギン(Clements Wergin)氏の「歴史と付き合うための、ドイツから日本への教訓(German lessons for Japan in dealing with history)」という記事が紹介されていた。

丁度中国で反日運動が高まっていた時に、私は日本を訪問した。与党自民党の政治家から、ドイツの経験に関する奇妙なコメントを耳にした。割と若い議員は、ドイツにとっては、過去の歴史を処理することが簡単だったろう、と言った。「何でもヒットラーが悪かった、ということにしておけばいいのだから。日本は、アメリカ人がそう望んだために、天皇制を維持しなけれならなかった(だから、過去の清算は難しかった)」。
また、町村外相は、ドイツ人はヒットラースケープゴートに使った、と言った。「まるでナチはドイツ人ではなかったかのように話して、何でもナチのせいにした」。
実際は、逆だった。
ドイツ社会の中で、戦後間もなくは、少数のナチドイツに加わった人たちが戦争犯罪に手を染めたとする考え方があった。1968年の学生ストの頃からこうした考え方は崩壊しだした。学生たちは、ドイツが戦争犯罪での責任を明確にすることを望んだからだ。
それから40年間、国民の間で熱狂的な議論が起きて、社会の大部分がナチドイツの犯罪の共犯者であったことに、ドイツ人は直面せざるを得なくなった。歴史はドイツの熱狂的トピックとなった。
過去のことばかりが話題に上る、と考えるドイツ人は多いが、ドイツ人の残虐行為を記憶に残すには、後悔や良心の呵責を持ち続けることが正しいやり方だ、とする考え方が広く社会の中で受け止められている。ドイツのケーラー大統領が「私達には、こうした苦しみを覚えておく責任がある、過去に関する議論に終わりは無い」と述べている。
過去を思い出し、現在の問題として考えようという社会のコンセンサスが、日本にはないようだ。
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欧州では、ある合意がある。それは、ドイツが自ら後悔の念を繰り返す限り、近隣諸国は、過去の歴史を政治的道具としてドイツに対しては使わない、というものだ。この点は、中国や韓国も、欧州から学ぶことがありそうだ。
しかし、アジア地域のねじれた関係を変えていくのは、日本の動きにかかっている。日本はこれまで数十億ドルの資金を東アジアに投資し、経済の活況をになってきた。政治的投資をする時期にきているのかもしれない。
将来的に近隣諸国からの信頼を得るために、日本は、おそらく、もっと徹底した過去の実態調査をするべきだろう。

ドイツの「歴史に対する態度」を自民党の政治家達と同じように思っている日本人は多いと思う。こういう記事は、日本のマスメディアで紹介されれもいいと思うけど、どうなのかな。まあ、紹介されても、聞く耳を持たない人達には目に止まらないだろうけど。

nikkeibp.jpの『反日デモへの対応に見る「中国リスク」管理』に、

中国ビジネスの経験が長いある大手電機メーカーのOBは、「日本企業の中国ビジネスの急拡大とは裏腹に、中国の実情を深く知る人材の層はむしろ薄くなっている」と指摘する。
1980年代から90年代前半にかけて、日本の大企業はいわゆる“中国要員”を継続的に育てていた。しかし、バブル崩壊後の不況に伴うリストラや、アジア経済危機の影響で、人材育成が一時滞ってしまった。ここ数年の中国進出ブームがそこに重なり、人材不足が深刻になっているという。
「中国をよく知らない本社に、中国をよく知らない駐在員がリスク情報を報告するという、笑えない状況が増えている」。人材育成の遅れも、反日デモに右往左往してしまう原因の1つだと、このOBは見る。
いずれにしても、反日デモの再発リスクに特効薬はない。中国に進出している日本企業の動向に詳しい京都大学大学院経済学研究科の大西広教授は、こうアドバイスする。
「中国は不安定な社会であるという現実を、日本企業はしっかり認識しておかねばならない。社会貢献活動などの地道な努力を重ね、中国社会に時間をかけて受け入れられることこそ、究極のリスク管理だ」

とあった。「中国社会に時間をかけて受け入れられる」ように努力する人が減ってきていたことも、反日デモが大きくなってしまったことの原因の1つかも知れない。