from上海to東京

子育ての日々の断片を書き綴る

JR西バッシングが凄い。ぼろぼろ出てくるから、ある程度は仕方ないけど、ちょっと行き過ぎの感も。
「善福寺手帳」に「そこまで追い詰めていいのか」というタイトルで、記者会見で記者達が罵声を発したことが述べられ、

単に記者の「言葉遣い」が不快なのではなく、なぜそんなに偉そうになれるのだと記者の人間性を疑ってしまうのだ。
たとえば事故直後現場に駆けつけた記者は、救出活動を少しでも手伝っただろうか。遺族に謝罪に現れたJRの幹部に向かって、遺族より先にマイクを向けて話させようとしていなかったか。
それよりも、今回「たまたまJR西日本だった」かも知れない。同じサラリーマンとして、同じ「企業という組織にいる人間」として同じ過ちを犯したかも知れない、という畏れや謙虚さが感じられない。

と。自分が当事者だったら、どんな行動をとってたんだろう。ちゃんとした対応ができただうろか。
神戸新聞には、

二転三転する回答に、会見は中断と再開を繰り返す。相次ぐ訂正とかたくなな対応に、報道陣の口調も次第に怒気をはらみ始めた。「あんたらどう思っとんのや」。こうした会見の模様がテレビ報道されると、市民から批判の声が上がった。怒声を上げていた一部の記者は、会見場に姿を見せなくなった。しかし、こうしたやりとりがなければ、JR側から「事実」が出てこなかった面は否めない。

だと。恫喝でしか事実が引き出せない。これが今のマスコミの実力か。

署名で書く記者の「ニュース日記」には、

JR西日本の姿勢はひどいと僕も思うし、批判は当然だろう。しかし、JR西日本が1分の遅れも問題にして運転士にプレッシャーをかけたのは、利潤や効率性の追求というだけではなく、乗客もまた正確な運行を求めていたからだとはいえないか。実際、電車が1分でも遅れると「遅いなあ。何をしているんだろう」と考える乗客が(僕も含めて)ほとんどのはずだ。
もちろん「事故を起こしてもいいから速く」と考える人はいないし、JR西日本の責任はたしかに重い。僕の言っていることは「問題の本質を見誤らせる」と批判されるかもしれない。でも、効率性や利便性、スピードを求める現代人の習性と社会環境を抜きにして今回の事故原因を語るのは、何かが欠けているような気がして仕方がない。自らを顧みることは、他者の立場への想像力を持つことと同じだと思うのだが…。

とあった。効率性や利便性を求めすぎるライフスタイルを改めないいけないときに来ているようだ。