from上海to東京

子育ての日々の断片を書き綴る

議論ができない日本人とブログ

Chinatomy Reportの「問答無用と民主主義」に、

アメリカで学んでいたとき、よく「議論の席と普段は別」といったようなことを聞き、目撃したような気がする。つまり、例えば授業中、いくら意見のうえで対立したとしても、意見の相違は尊重するわけであり、授業以外の普段の生活においては、それこそ普通に普段どおりに接することが出来るということだ。換言すれば、意見の違いを普段の生活にまで引きずらないということだ。
日本の場合、どうもこういう「分離」が難しいような気がする。極端ないい方をすれば、あたかも「意見の違い」は「相手の存在の否定」にまでつながってしまいかねない危うさがあるような気がするといっては、いいすぎだろうか。たとえば、会社の会議で激論を戦わせ、大きな意見の対立を見た当事者同士が議論の席を離れたところで、普段どおりの付き合いができるだろうか。なかなかそれは難しいような気がするが、どうだろうか。

とあった。その通りだと思う。いわゆるディベートが苦手な人が多い。議論をするとすぐに感情的になってしまう。梅田望夫さんが「My Life Between Silicon Valley and Japan」の「Blog論2005年バージョン(7・これで完結)」で、デジモノ氏の「日本のブログはどうして議論が活発にならないか談義」の

政治・社会や経済・金融・ビジネスといった真面目な議論の分野では、ネット上のコミュニティがその界隈に影響を与えるほど強い力を持ち得たというストーリーには今のところなっていません。

という文章を紹介しているが、そもそも日本人が「真面目な議論」をできないから、そういった結果になっているような気がする。私のブログ自身が、今のところ、日常の出来事の覚え書きと独白に終わっているので、偉そうなことは言えないけど。